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「日常のこと」って何にも考えずにただまわりに流されてダラダラ生きているだけにしか過ぎないって、どうして誰も分かんないんだろうか?

noteに書く人って、「日常のこと」がとてもとても多いんだけど、プロフィールや自己紹介をみていると、いらいらしてとてもとても困惑してしまうのだ。趣味でも「食べることが好き」「グルメ」なんてあるのにも、ただバクバク喰ってくだらない感想をこくだけだけだろー!?ん?って思ってしまうのは、私だけでしょうか?
日常のことって、日本の私小説作家が何十年も前からウジウジと悩んできたことなのだ。写真だって、1960-70年代に「極私的」なんて言葉でくくられた凡百凡庸月並みの写真群がドバドバ溢れていたのである。


お金を出せば、色々と変わった、人とは違ったものが手に入る。お金を出せば、人とは違った体験ができる、ということで、後はお金の有る無しでそのランキングが決まるというのをよしとするのは、とてもシンプルな脳味噌の構造の人。お金があっても出来ないことが、世の中にはいっぱいあるという恐ろしい事実が分からないのだ。
お金で取引できる、お金と交換できるというのは、お仕着せのパッケージ化されている、ということ。


??社の??シリーズの、デジタルカメラ、というパッケージ。??テーマパークの、???という???型エンターテイメント、というパッケージ。それがお仕着せなのだ。そのお仕着せに、あーでもない、こーでもない、ここが足りない、ここが違う、という文句が出るのはごくごくフツーなのである。
ホモサピエンスにしかできない「考える」ということはとても面白いことなのである。それはパッケージを突き破って、自分の知らない領域に踏み出していくことだから。ありきたりの世界から離れていくのである。


1960年代の熱いコンテンポラリーフォトグラフィーの担い手たちは「まず確からしさの世界を捨てろ」とあちこちで口々に叫んでいた。それが予定調和の世界を、忖度や既成利権の世界を、お互いに足を引っ張り合う「人の不幸は蜜の味」「渡る世間は鬼ばかり」の世界を、きれいにすっぱりと捨て去って、「創る」「造る」「作る」世界に進んでいくのである。そこにあるのは、不安、怖れ、ヤバさ、危険だが、それが即ち「ドラマ」であり、アリストテレスが「詩学」の中で書いた「カタルシス」へと突進する道なのである。
他人さまの時間や手間を、noteを読むということで消費させてしまうなら、少なくともそれに見合った「脳内ドラマ」を読み手に与えなさい。それが書き手の最低限守るべきマナーである。ドラマチックでない文章、ドラマチックでない写真、ドラマチックでない表現、これらはみーーーんなクソ、クズ、カス、ゴミである。

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