小林多喜二の隠れ家
福元館に泊まった敦は、朝の三時に起きた。毎日、早朝に起きるので、当たり前なことである。「24時間温泉は開いてますので、ご自由にお使いください。露天風呂は9時に閉めますが。それと夜の7時から男女の温泉が入れ替わります」と中居さんが言っていた。恐る恐る深夜の風呂場にタオルと大きめのバスタオルを持って行ってみた。10人以上入れるタイル張りの浴槽があった。毎秒何トンもの温泉が湧き出ている位の勢いで湯口から出ている。細長い浴槽にどくどくと流れる音が心臓みたいに聞こえる。ただ一人で優雅と言えば、優雅だが、静かすぎてしまう。
「安政、万延。文久、元治、慶応、明治、大正、昭和、平成、令和と続いた時代を生き抜いた温泉である。有難い物だ」と独り言を言っていた。改て年号の面白さを知った。安政から何人の人たちがこの湯に浸かったかは分からないが、それぞれの時代にそれぞれの想いで、同じ温泉に浸かっていたと思うと感慨がひとしおだった。最近は、半身浴にしているので、肩まで浸かるのは、出る直前にしている。出てからが、全身に温かさが残るのと長い時間、入浴できるメリットがある。
静かな温泉場から部屋に戻った。まだ、家族が寝ているので、音を立てずに帰ったら、妻の瑠璃子が起きていた。水が飲みたいと言うので、自販機のある一階のお風呂場近くまで、静かに向かった。千円札しかなかったが、自販機の「ボルビック」の水と「午後の紅茶」を買って、部屋に戻った。流石に、深夜の3時から4時の間は、人っ子一人もいない。音を立てずに歩いた。
寝室のある部屋には暖房があるが、手前の小さな部屋には暖房がない。それでも、お風呂上がりだから、体がぽかぽかしている。スマホを開けて、フェイスブック、ツイッター、line、メールなどをチェックした。現代人の癖でもあると苦笑する敦であった。夜明けまで、また寝ることにした。湯疲れと人は言うが、温泉に入ると疲れる。と言っても心地よい疲れだから、よく眠れる。旅館の窓が明るくなった。障子を通して明るい陽がさす。「散歩に行こうか」と瑠璃子が言い出した。意外にも息子も寝起きなのに起きた。「散歩の方が大事だよ。今日しかないもん。家で寝ればいいからね」と息子が言った。
旅館をでた3人は「ゼロ地場の亀石まで行こうか」と瑠璃子を先頭になだらかな山道を登る。山道を登っていくと道の脇に木の柵ができていたり、高圧電流の通った柵があったりと物騒になる。舗装はされているので、安心感はあるが、熊注意の看板が立てられていた。野性の猿に対する心得の看板はイラスト付きの丁寧な物だった。野性動物は、他にも鹿や鳥もいる。「この辺の人たちは生命の危険に晒される覚悟で生きているのだな」と感心した敦は、足腰が悪いので、かなりの距離を離されていた。
大きな石がある。とても歩けないので、亀石の入り口まで歩いた。そこからも巨大な石が見えた。『ゼロ磁場』とは、「地球は北極がS極、南極がN極の巨大な磁石であり、地表近くで+と-の力が押し合い、互いの力を打ち消し合っている地点に生じるのが、ゼロ磁場と言われている。 ここでのゼロというのは、二つの力が拮抗した状態を指す。 ここに生じる強大な力が、『気場』を生み出しているという。」とネットで読んだ敦だったが、パワースポットという方が納得できた。
「今回の旅行のファーストミッションは完了したね。次は、小林滝時の隠れ家探索だ」と朝食の最中に言った。朝食は、湯豆腐と味付けのり、きんぴら、お新香、鮭、卵焼き、かまぼこなどの6品が全部分けてはいるお皿に入っていた。ご飯のお代わりができたので、全員がお代わりした。普段は少食の二人がお代わりしたことに驚いた。旅効果というヤツだ。
朝食が終わって、いよいよ小林多喜二の隠れ家探索だ。フロントで鍵をもらって、いざ出発だ。多喜二の部屋は、道路を隔てた離れにあった。石段を登った先に一軒家がある。黒く塗装された木造の平家は、こざっぱりしていて、いかにも文豪の部屋という感じだった。玄関を開けると縁側が広くあり、気づけば、ガラス戸だった。土間からすぐに和室がある。小さな火鉢に鉄瓶が置かれている。ふすまの前に丹前が飾られていた。ふみ机の上にお猪口が2本置かれている。奥の間には、本棚が二つあり、長期滞在していた当時の様子がわかる品々が並んでいた。今は、小林多喜二全集などが飾られている。全7巻もあるのでかなりの数を書いていたことが分かった。「29歳で拷問死を遂げるまで、こんなに書いていたんだ。やっぱりすごい人だったんだね。僕も後5年もしたら29歳だよ」と息子が言った。
「この旅で、最も感動したのは、福元館の先代の方々が、警察を恐れずに、小林多喜二を匿った隠れ家を見た事だな。ここのご主人の無骨で筋を通す生き方に感動した。俺には出来ないが」と聡が帰りの電車の中で言った。全員が納得したと頷いた。
小林多喜二を代表とするプロレタリア文学は、1920年代から1930年代前半にかけて流行した文学で、虐げられた労働者の直面する厳しい現実を描いたものだった。今も同じだ。今の方が酷い扱いを受けている。働く者に組合はなく、団結もストもできない社会になってしまった。孤独な餓死者や自殺者も増えている。社会に対抗や反抗が出来ない社会。
「やっぱり、笑いがない社会なのかも」格差社会の成熟期である。貧しい者はどんどん貧しく、金持ちは、きみが悪いほど、きみ悪く金持ちになっていく。もっと笑いをと敦は思う。小林多喜二の小説には、希望があった。今は、絶望か破壊しかない。それでも、笑い飛ばす希望が必要だ。豊かなはずのITや先端技術社会なのに、誰にも恩恵がない。かえって管理社会になってしまった。自由を勝ち取った庶民が、その自由を手放す。人間回帰という言葉が虚しい。明日に向かって、生きる人たち大勢もいるはずだ。「何か面白いことをいなければ、生きていけないような気がしてならない」と敦は思った。虐げられた庶民のために。
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