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はじめてのIKEA

 我が家のソファーはボロボロだった。二人がけの黒い合成皮革のソファーで、僕が学部に入った頃買ったものだからかれこれ八年以上使っていたことになる。一年と少し前。合成皮革にヒビが入り、それからあれよあれよと言う間にボロボロと皮が剥がれ落ちてしまった。補強材を買い、カバーをかけそれでもなんとか使っていたのだが、正直すでに限界であり、そのソファーのみっともない姿は僕の心に小さくはない悪影響を及ぼしているのは明らかだった。

 仕事もなく、稼ぎのない僕は、買い替えるなら実家の許しを得ないといけない身分だが、これ以上のわがままを言いたくない気持ちがあり、なかなか言い出せなかった。久しぶりに部屋の大掃除をした。気分が良かった。家に人を呼びたくなる。寂しいのである。なおのことソファーが気になった。ソファーさえきれいなら。そんな気持ちになった。

 思い切って実家に相談し、予算をすり合わせ、買い替えることになった。しかし、大仕事である。大仕事であるが、堪え性のない僕は早く買い替えて人に見せたい。入荷待ちとか配送待ちとかは嫌だった。まずは古いソファーを、業者を呼んで回収してもらい、その日のうちに新しいソファーを買って来たかった。車がいる。運転は苦手だ。そこで僕はよく車に乗せてくれる年下の友人に連絡をした。

 彼は快くその話を受けてくれた。彼自身、我が家によくくるので、ソファーを使う機会も多く、古いソファーの状態が気になっていたのだろう。彼の好意に甘えて車でソファーを買いに行くことにした。近所のニトリでなんとかなるだろうとその時は思っていたのだ。だが実際行ってみると、気に入ったソファーはいくつかあったのだが、店には展示品以外置いておらず、すべて注文とのことだった。展示品でいいから持ち帰りたいと言うと、展示品は売らないのだと言われた。

 いったいどうしようかと考えていると、友人が「IKEAに行きましょう。まだギリギリ間に合います。車なら四〇分程度です」と言う。IKEAは一九時に閉まるらしい。すでに六時だった。正直不安だったが、他に案もなく、かと言って諦めたくもなかった。何より僕は彼のことを信頼していた。

 そこから車で四十分。僕らは緑地公園のあたりからIKEA鶴浜店へ向かった。天気はどんより嫌な感じで、新大阪をすぎる頃ににわか雨に降られるなど、不吉な予感ばかりが増して行く。信号待ちで危険運転の自転車に絡まれるなど、いくつかのトラブルに遭いながら、閉店十分前のIKEA鶴浜店に到着。車を降りて、真っ先に耳に入ったのは蛍の光だった。だが、ここまで来て退く訳にもいかない。

「なんか、活き活きしますね」

 駐車場を走りながら彼が言った。

「何が?」

「ええ? こうやって締め切りに追われながら何かをやり遂げようとすること、僕ら最近ないじゃないですか。仕事もしてないけど、学生でもないし」

「そうだなあ」

 そうだったんだ。なんだかワクワクするのは、そのせいだったのだろうか。僕はそう言われて、とても楽しんでいる自分を発見した。

 IKEAは広かった。ソファー売り場に辿り着くのも大変だった。とてもたくさんのソファーがあり、お洒落なのに価格も良心的なものが多い。欲しい形、大きさ、予算、好みの色。それらの兼ね合いですばやく候補を絞っていく。蛍の光が絶え間なく緊張感を与えてくる。目をつけたソファーの生地を触って確認し、寸法を見た。

「これなんかどうかな」

「ああ、いいですね」

「これにする。これどうしたらいいの」

 僕はカードか何かをとってレジに持って行くとモノを持って来てくれるとばかり思っていたが、IKEAは違った。大きな倉庫に台車を自分で持っていき、商品をとってレジへ行かなければならない。もう閉店時間はとっくにすぎている。僕は焦った。倉庫までの道のりも長く、店員とすれ違うたびに申し訳ない気持ちになった。とにかく急いでそこへ向かった。途中、食器やインテリア、様々な商品が目に入り、いつかゆっくり来て見たいとそう思った。

「IKEAもね、一日つぶせますよ。今度またゆっくり見に来ましょう」

「うん」

 なんだか恥ずかしかった。自分の考えを読まれた気がして。だけど、嬉しかった。また一緒にきてくれるつもりが彼にもあるような気がしたから。

「ここです」

 入り口を抜けると広い広い倉庫に大きな棚。梱包された商品が無限と思われるほど並べられ、僕は驚いた。これがIKEAか。

 番号を頼りに棚に向かい商品を積む。よくみるとまだ買い物をしている客が結構いて、少し安心した。今回僕が買ったのは二人がけファブリックソファー「パルプ」(三七、〇〇〇円)。色は明るいグレーにした。思った以上に箱が重く、それを台車に乗せレジに向かった。会計はもちろん電子マネーにも対応しており、僕はIDで決済した。五万ほどの予算を見ていたので大分安くすんだ。いい買い物だ。これがIKEAか。

 車に積み込み、千里山へ帰る。IKEAは海のそばにあった。大きな橋を渡る時、車はどんどん夜空に吸い込まれて行くようだった。海辺の夜景が眼下に広がりとても綺麗だった。ただ、ソファーを買い換えるだけ。だけど、このなんでもない日を遠い未来で思い出す日が必ずくるような気がした。

 家に着くとどっと疲れたが、組み立てをしなければならなかった。二人で箱を開け、説明書を読み、手探りで組み立てていく。初めは完成のイメージが湧かず、ひどく手間取った。いつまでかかるのかわからず、心が折れそうになった。実際、一人で組み立てていたら、諦めていただろう。次第に形が見えてくると、作業はスムーズになった。思ったほどの時間はかからず。ソファーは完成した。二人して腰掛けた時の感動は想像していたよりずっとずっと大きかった。こんなに楽しいこともあるのだった。

 そこから祝杯をあげながら、いつものように彼と話した。すでに時間は深夜二時に近かった。とてもとても長い道のりだったように思う。夕方の四時半に業者が古いソファーを回収しに来て、それからソファを買いに行き、搬入、組み立て。最後まで付き合ってくれた友人には感謝しかなかった。

 あの古いソファーは僕そのものだった。ボロボロなのだ。でも、新しくするなんて厚かましいと、自分を蔑ろにしていた。何かを、きっと諦めていたのだろう。友人が家にくる。ソファーに座る。カバーはすぐにずり落ちて、剥がれたビニールが客人の服を汚す。その度に僕は、こんなソファーに客を座らせるような人間だという負い目を、友人らに、そして得体の知れない何かに対し感じていた。それでも変わる勇気はなく、分を弁えるという態度にしがみつく。あれは僕の負い目そのものだったのだろう。

 それを友人と一緒に買い替えたという体験は僕をとても健康にしてくれそうに感じた。それはいっときの錯覚かも知れないが、それでよかった。僕が欲しかったのはきっかけだったのだから。

「すみません、彼女が会いたいって言ってるんで、そろそろ」

「ああ、そう。いやほんとに今日はありがとう。感謝してる」

「いえ、それでは」

 彼が立ち去ったのは早朝の四時くらいだったはず。僕は彼のいなくなった部屋でひとり、真新しいソファーに座っていた。自分が何に怯えていたのか、考えてみようとしていた。そのための場所として、このソファーのクッションは最適だと思われたから。窓の外で深い深い藍色が、静かに光はじめていた。


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