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干さオレ~四ツ谷怪談篇~(第二回)

文芸時評・8月 荒木優太

 都知事選が終わった。結果はご承知のとおり小池百合子の大勝、次席は石丸伸二、リベラル派の希望の星であった蓮舫は第三位に甘んじることになった。
 今回の選挙では泡沫候補たちの奇矯な振る舞いが連日SNSを騒がせていたが、なかでも政治団体「カワイイ私の政見放送を見てね」の内野愛里が政見放送中にシャツを脱衣するという一景に感慨深いものを覚えた。晒された胸部には肌色のさらしが巻かれており、全裸とも見違える格好で自分の名前を連呼し、視聴者の記憶に訴えかける戦略を駆使していた。
 改めて確認するまでもなく、女性の身体、もっといえばその素肌は、男性の好色に基礎づけられた大量のアテンションを獲得できる注意経済の覇者である。その強さに魅了された女性、または女性を利用して小銭を稼ごうとする男性たちは、かくして緻密な計算のなかで布面積の攻防戦を繰り広げることになる。
 こんな感想を抱いたのは、紗倉まな『うつせみ』(群像)を読んだからだ。紗倉作は、美容整形を繰り返す祖母に可愛がられて育った辰子がグラビアアイドルになり、葛藤のなか活動しながら祖母の死を看取るまでの物語である。
 全体を統御する鍵語は「痛み」だ。代表的にそれは祖母のダウンタイムのなかに現れる。豊胸手術後は胸をつぶすような動作が禁じられるため寝そべることができず、「痛みが体の線から今にもはみ出して溶け出しそうになり」「それを必死に両腕で押さえた」。なりたい自分に変身する代償として「痛み」が女を襲うが、もしも、なにがなりたい自分なのか見つけ出すことができなかったならば、女は永遠のダウンタイム(落下時間)、「痛み」の煉獄のなかに閉じ込められるだろう。もともとはバイトもうまくこなせないフリーターで、ただのなりゆきでグラビアアイドルになり向上心を欠いた、つまりは整形に無関心な辰子の「毎日が痛い」のはそのためだ。
 本作には「みぞれちゃん」という辰子と同じ事務所のグラビアアイドルが登場する。みぞれは辰子と違って努力家かつ人気者で、その証拠に単独の写真集も刊行しているが、やがてアダルトビデオに出演し、「AV堕ち」とネットで形容されるようになる。
 二人の仄かな友情は、児玉雨子『##NAME##』(河出書房新社、二〇二三年)を連想させる。母親の強い希望で小学校時代からジュニアアイドルをつとめていた雪那は、同じ事務所の美砂乃と仲良くなる。仕事に消極的な雪那とは対照的に、美砂乃は演技やダンスのレッスンにはげみ、性的な衣装やポージングを求められるファンを集めた撮影会にも積極的に参加している。やがてその熱意の落差が二人のあいだに深刻な軋轢を生む。児玉作は紗倉作以上に、被写体となる女性間の相克的な側面を前景化していくが、「弾丸」の比喩は驚くほどよく似ている。並べて引いてみよう。
「穴だらけになっても笑っている美砂乃ちゃんを救おうと、私はその目をつんざく光の中に飛び込む。その弾丸は私に数発当たって穴を開ける。けれど私は数発で済んでいる。同じ場所に立っているのに蜂の巣になるまで撃たれているのは美砂乃ちゃんだけだった」(児玉雨子『##NAME##』、一三三頁)
「土俵に引っ張り上げられ戦い続け、いくつもの弾丸を撃ち込まれてボロボロになったみぞれちゃんの流れ弾が、今度は辰子の体にぽこぽこと当たっていくような気がした」(紗倉まな『うつせみ』、一二四頁)
 性的な視線が「弾丸」として語られ、少女たちの体に穴を空けていく。興味深いことに両者はただの写真撮影ではなく、ファンを集めた撮影会の場面を念頭にしている。ファンに撮られるということは、画面やスタッフといった衝立もなしに、個々人のナマの欲望に直接向き合わねばならない苦境を暗示している。男の娘のコンセプトカフェを舞台にした市街地ギャオ『メメントラブドール』(太宰治賞2024)にも認められる苦境である。
 その上で、脇役を命じられた主人公の痛みの描き方の違いに注目を促がしたい。
 児玉作では、人気者を救おうと欲望の現場に飛び込むものの、熱意と容姿の格差のせいで彼女の盾になりきることはできず、自己犠牲の精神すら「弾が近づくと私は透けてしまい、美砂乃ちゃんはそれを食らってどんどん穴だらけになり、ついに穴そのものになり見えなくな」る無為に終わる。人気がないが故に助けようと思っても助けられない。
 対して、紗倉作では、人気者は中途半端な身体露出に留まるのではなくAVという徹底の道を往き、当然その労苦は想像してあまりあるわけだが、では、みぞれ不在の撮影会はまだマシなのかと問題提起してくる。常識的に考えれば、カメラの前で性行為をせねばならないみぞれと性行為の暗示に留まる着衣の辰子とでは、前者のほうがより深刻であると一般に考えられるが、辰子にはそれを素直に追認できない忸怩たる想いがある。辰子にとって弾丸は人気者を仲介した「流れ弾」である。人気者がいるからこそいっそう峻烈に身体をえぐる弾が装填されるのだ。
 見方を変えれば、辰子はみぞれを盾にしていたのだといえるのかもしれない。が、みぞれが盾の条件を満たすのは中途半端な身体露出をしているあいだに限られ、徹底の露出を決断したあとは、みぞれの身体こそ透けてしまい、辰子に貫通する。問題の肝は、もはや身体を露出するかどうかではない。肌色のさらしが象徴するように、誰がどの程度まで露出するか、それによって女性が配属される界の組成が刻一刻と変わってくるということなのだ。AV女優とグラビアアイドルとジュニアアイドルは、社会的取り扱いが決定的に相違する諸世界にそれぞれ属しているという事実を、我々はまず驚きのまなこで眺めなければならない。翻ってそれは、男性側がもっている欲望のニュアンス的差異、たとえば、この女とセックスがしたい、と、この女でマスターベーションがしたい、の差について再考することに通じるだろう。
 二作を通過した後だと、鈴木涼美『グレイスレス』(文芸春秋、二〇二三年)にはどこか牧歌的な雰囲気が漂うかもしれない。鈴木作はポルノ女優の化粧師として働く聖月が、現場と祖母の家を往復しながら、アンダーグラウンドな世界を活写していくもので、祖母のメンター的な立ち位置は紗倉作を彷彿とさせる。他方、消費者と直接向き合わないですむ現場ばかりが選ばれているためか、紗倉作にも児玉作にもない、プロの集団芸術に認められるような上品な佇まいをどこかに残している。
 特に、写真の技術的介入が俎上に上げられるとき、その残影は決定的である。鈴木作にでてくる大手ポルノメーカーの社長は、冗談でポルノにおけるCGやドール(人形)での代替可能性を語り、女優たちは怒りを露わにし、テクストは素肌というアウラを防衛するが、紗倉作の世界ではもはや怒りの感情は失われ、みぞれは「二次元に近づけることが、今の美の表現」であることを前提に身体メンテナンスに勤しんでいる。そればかりか、アイドルたちの集合写真は「きっと人数分だけ顔が変わる」予期に貫かれ、あたかも加工的完成のための生贄として、生身の女性が召喚される――AI創作物と絵師や翻訳家の関係にもあるような――転倒をも受け入れているかのようだ。『うつせみ』がもっている痛々しさは、男性的欲望との生々しい直面だけではなく、その欲望を自らトレースして、それに最適化した身体になるために率先して技術に奉仕せねばならない、二重の屈従に由来している。
 現代にはたしかに身体見世物小説の一脈がある。見世物とは店物のことでもある。言い換えれば、プロダクション的体制が溶解し、個々人が個人事業主という名の店主となって、商品と売り手の両方をになわねばならない。これは、規制が厳しくなればなるほど多くのアダルトコンテンツ制作が地下化していくだろうという厄介な予測と直接関係するだけでなく、出版不況の突破口がまるで見えないにも拘らず、文学フリマは東京ビッグサイトで開催されるほど盛況を極め、棚料さえ支払えば誰もが本屋になれるシェア型書店に大きな注目が集まる、現在の文芸状況とも正確に同期している。肌色のさらしを対岸の火事と笑っていられるほど、我々は意外に遠くにいるわけではないのかもしれないのだ。
 最後に。前回の時評に物言いが入った。山下紘加『可及的に、すみやかに』にでてくるひきこもり男、蒼汰の杜撰な扱い方に嫌悪感を表明したが、RNオンリー・イエスタデイ(@onlyyest)によれば、『可及的に、すみやかに』は同作者『掌中』(文學界二〇二三年三月号)のスピンオフであり、蒼汰は『掌中』主人公の息子として厚く描かれているのだという。『掌中』は勿論読んでいたが、登場人物の名前まで覚えておらず、作品世界が共通していることに気づけなかった。なぜこの二作が連作でなければならないのか、繋げるにしたってその繋げ方どうなんだ、と素直に頷けないところもあるが、少なくとも作者からすれば「あんなふうになるのは嫌だ、と誰かに思わせるためだけに創造された」云々といった拙評は的外れに響いているに違いない。なにより、注記できたのならそちらの方がより親切であった。申し訳なかった。反省する。

▶荒木優太。在野研究者。1987年生まれ。著書に『これからのエリック・ホッファーのために』(東京書籍)、『貧しい出版者』(フィルムアート社)、『仮説的偶然文学論』(月曜社)など。近刊に『サークル有害論―なぜ小集団は毒されるのか』(集英社新書)がある。

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