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いま虚構や批評にとって陰謀論とは何か(前編)——全体性の思考と陰謀論化した世界

フィクションの感触を求めて(第四回) 勝田悠紀

0.はじめに

 この連載もついに四回目になった。ほぼ同時期にスタートし勝手に同級生のつもりだったなかむらあゆみさん「地方文学賞の賞金で文芸同人誌をつくる」、韻踏み夫さん「耳ヲ貸スベキ!」が相次いで全六回を完走し、荒木優太さんの「干さオレ」にいたってはまさかの二周目である(と書いていたら先日ついになかむらさんも二周目に入った)。一人あるまじき進度の遅さにオレもいつ干されてもおかしくないと内心恐々だが、なんとかゴールラインを切れるよう歩みを進めていきたい。
 この連載のテーマはフィクションである。折り返しなので簡潔にまとめておくと、ここまで時事的なトピックにも触れながら、フィクションをめぐるテーゼを各回ひとつ提案してきた。

 ・第1回 フィクションとは書くことである。
 ・第2回 フィクションとは二重性である。
 ・第3回 フィクションとは(今日)ギミックである。

この連載は、今日フィクションが退潮しているという見立てのもと(この点については特に前回の後半でやや詳しく展開した)、文芸批評はまずこのフィクションのありようを考えるべきではないかという問題意識を出発点にしている。そこをすっ飛ばしてしまっては、文学と社会の接点でなされる思考はどこまでも上滑りしてしまうのではなかろうか。
 しかし、自分で言っておいてなんだが、フィクションってそもそもそんなにいいものなのか、フィクションがしでかす「悪さ」はどうなるのか、という疑問も浮かばなくはない。あえていかにもな例を挙げるが、たとえば昨年十月三十一日に『バットマン』シリーズの悪役ジョーカーの仮装をした男が京王線の車両内で乗客を切りつけ放火した通称「ジョーカー事件」を見て、フィクション作品であるところの『ジョーカー』について何が考えられるべきか。
 今年八月に翻訳出版されたばかりのジョナサン・ゴットシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』(注1)は、人間の認知に内在する危うさを「物語」という言葉に集約させて見せる一冊だった。「物語のパラドクス——私たちのストーリーテリング愛がいかにして社会を作り、かつばらばらにするか」が原題の同書は、物語が人間の社会生活に不可欠であることを前提としつつ、そのデメリットを数え上げ、「私たちがみずからに問うことのできる最も差し迫った問い」は、「どうすれば物語から世界を救えるか」だとする。認知科学などの領域からのこのような議論は、悪因を「物語」と名指すかはともかく、目にする機会が増えているように思われる(例えば綿野恵太の著作)。
 フィクションのフィクション性を問うこの連載と、人々に「なんらかの行動を起こせと呼びかけ」(一二三)る、「活性化する感情」(一二九)を喚起する「物語」を扱うゴットシャルとでは、見ている先は微妙ながらはっきり異なってはいる。ゴットシャルは二〇二一年のトランプに「「現実」の終わり」を見るが、僕はむしろそこにフィクションの退潮を見、前者は後者の結果であると考える。しかしいずれにせよ、ゴットシャル的な論点を回避するために物語を「良い物語」と「悪い物語」にわけてしまいたいという誘惑には抗うべきだ。第二回で触れた「善い男性性」と「悪い男性性」の議論が典型だが、そういう単純な二元論をでっち上げたうえで、悪を抑制するよう努めることが繊細さだとするような議論が多すぎないか。むろん、二重性が大事だという「当たり前」をおまじないのように唱えていればいいと思っているのではない。僕の立場からは、フィクションを問うことは、二重性の思考がいかにして可能かを原理的に考えるひとつの糸口だと主張したい。いずれにせよ、悪いフィクションだけを都合よく厄介払いすることは不可能である。すべてはつながっているのだ。
 しかし、すべてはつながっている、という発想もまた、今日問題含みである。というのもそれは、あらゆる証拠をつなぎ合わせて背後に巨大な作意を想定する「陰謀論」を想起させるからだ。今回と次回は、いまや「悪い物語」の頭領という感もあるこの「陰謀論」を取り上げる。ゴットシャルは前述書の第三章で、「陰謀論」の名称を「陰謀物語」に修正し、「理性が道に迷う原因となる・・・・・強い物語」として陰謀論を捉えている。「気持ちをわくわくさせる虚構のスリラー」としての陰謀論が、「その嘘を暴く検証記事」を軽々蹴散らしながら広まる(一二一、傍点原文)のを目にするとき、陰謀論はわれわれのフィクション論にとっても無視できない隣接領域である。
 もっとも陰謀論そのものは、昨日今日の産物ではない。今日の形でのそれは、啓蒙思想やフランス革命の時期に本格化し、十九世紀から二十世紀にかけて繁栄してきたとされるのが一般的なようだ(注2)。にもかかわらず、ここ数年で「陰謀論」という文字を目にする機会が増えたことは、多くの人が感じているところだろう。陰謀論はいまや「ポスト・トゥルース」と並ぶ、現代社会の病の代表選手である。
 興味深いことに、インターネットの登場を間に挟むこの五十年ほどで、陰謀論を信じる人の割合自体は増加していないという研究(注3)もある。ウシンスキーら論文の著者はこの結果をもとに、陰謀論の危機を喧伝することに対して慎重になろうと呼びかけている。しかし仮にこの研究が正しいとすると、おもしろいのはその乖離の方、陰謀論者は増えていないが陰謀論を語る人は増えている、あるいは増えていないものが増えていると錯覚されているというその状況ではないだろうか。
 現代の陰謀論研究の先鞭をつけたとされる「アメリカ政治におけるパラノイア的様式」で、アメリカの政治学者ホフスタッターは、陰謀の所在が国家の外部から内部に移動してきたことを指摘している(注4)。また最近では、「事件陰謀」から「体系的陰謀」、さらに「超陰謀」へと移行し、陰謀集団や出来事の絡み合いが複雑化、その輪郭がいよいよ見えにくくなるという議論もあるらしい(注5)。イルミナティならイルミナティ、ある国外勢力ならその勢力を指弾しておけばよかったものが、次第にその境界を流動化させ、内部化、複雑化、拡大を遂げるとき、社会的に語られイメージされる陰謀論像も、おそらく同様の変化を経つつ、日常のコミュニケーションに入り込み、私たちの世界のイメージを強く規定しだす。
 以下で見るように、それには一定の要因が想定できる。結果として私たちは、特定の陰謀論へのコミットの有無にかかわらず、陰謀論を語り、陰謀論的に世界を見、また陰謀論に内在する視点の複数性に混乱をきたすようになっている。……という言い草もまた一つの陰謀論たることを免れないのかもしれないが、それならそれでいいとして、どこまで陰謀論に迫れるか、ひとまずやってみようではないか!

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