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連載「時評・書評を考える」のお知らせ

 連載「時評・書評を考える」を開始する。「時評・書評」とあるが、対象はそれにとどまらず、文学のメタ言説全般である。毎回、時評や書評などに関わったことのある論者に、体験談や制度の問題点、展望などを語っていただく。第1回は仲俣暁生に依頼した。
 仲俣は、1990年代、とくにその後半から書評を精力的にこなし、オンラインマガジン『書評パンチ』を運営。そこには、孤独になりがちな読書行為を「共同的な営み」へと開くために、「リンクを張る」という比喩で書評をはじめとするメタ言説をとらえるユニークな発想がある(「「書評パンチ」とはなにか」https://web.archive.org/web/20060911235329/http://www.shohyo.co.jp/punch/essay/sengen1.html)。当時、対象への批判が過激化する文芸批評とは別に、こういった運動的な活動があったことは記録されるべきだろう。
 その後ゼロ年代に入ってからは文芸批評家としてまとまった仕事を著書として発表しながら――『ポスト・ムラカミの日本文学』(朝日出版社、2002年)『極西文学論 Westway to the World』(晶文社、2004年)――、仲俣の活動の中心にはつねに編集・書評・時評という「共同的な営み」を企図した「リンクを張る」作業があった。この連載の初回に語っていただきたい論者として寄稿をお願いした次第である。

 対象に奉仕するだけの、褒める時評や書評ばかり見かけるようになったと指摘されることがある。大いに褒めあうのも精神衛生上悪くないとは思う。わざわざ批判めいたことを言うのはすこぶる燃費が悪いようにも思う。
 しかし、対象との距離が一定のものである限り、文体は平板化する。批判してよいもの、批判してはいけないものがなんとなく決められていればなおさらである。文学関係のメタ言説――文芸誌からSNSまで――を読み拾ってみればよい。時の政権批判やヘイトに対する批判などはよく見かける。こいつは石ぶつけてOK。コミュニティー内で批判してよいという共通了解があるものに批判をするだけなら、文体は過激化する一方で、貧しく単調にならざるをえない。そういう意味では、優しいケア的な文体も、過激なアジ的文体も、同じリスクを抱えているのではないか。
 遠くにいる仮想敵ではなく、批判しにくいもの、批判できないものを前に、それでも批判の必要に迫られた時、文体は屈折する。それは伏字利用というわかりやすい事例にとどまらない。アイロニーやユーモアのあるレトリックをおり込むこともあれば、言いよどんだりはぐらかしたり、教育的にふるまってみたり、あえて挑発したり、負け惜しみを放ったり、様々な文体が駆使されるはずだ。
 昔話になるが、小林秀雄の初期の文芸批評は、レトリックの集積で成り立っていた。「様々なるレトリック」? それは言葉遊びをしていたからではない。身近な他者を相手にしていたからである。流行りもののマルクス主義文学を一定評価しながらくさしてみせ、自分に近いブルジョワ文学には教育的指導をほどこし、資本の原理に依拠した大衆文学にはアイロニカルに敬してみせる。
 勘違いされがちだが、小林秀雄の登場の画期は、普遍的な評価の尺度を打ち立てたことにあるのではない。その逆である。しょせん印象批評でしかないという緊張感から繰り出されるパンチが彼の文芸批評を支えている。昔話は時に有害であるが、文学のメタ言説に関わる言葉が現在どういう状況にあるのかを見定めてみるのは悪くない。つねに不安定な手元足元から「リンクを張る」こと。そういうメタ言説が繰り広げられる場所があってもよいのではないか。そんな思いから始めた特集である。

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