車も感情も、法定速度を遵守しましょう
ハンドルを握っている時、運転に感情を乗せてはいけない。
これは車を運転する際の基本的なマナーだ。
気分が荒れている時には走行も荒く、落ち込んでいる時にはメリハリのない走りになってしまう、そんな風に運転が感情によって左右されるようでは自動車の運転適性がないということになる。
制御不能な精神状態にあるなら、その時は運転を控えるべきだ。
とは言え……運転時に関わらず、その時の精神状態に左右されずにいるというのはかなり難しいことだ。それどころか私たちの行動は常に理性というよりも己の精神状態に支配され続けているのであり、右へ左へぐらぐらとブレ続け、気が付いたら「どうしてこんなところにいるのだろう?」と呆然とするのが当たり前だ。
自らのパースペクティブから逃れられないからこそ、自分を制御できないからこそ人生はままならないのである。
それを運転の時に限っては虚心坦懐にと言っても無理がある。
実行不可能な目標はそれがないよりも有害である
これは上司から「そりゃできたら良いけど現実的には無理でしょ」な目標が通達された時にいつも思うことだ。
学生の頃までなら、志高く、実現不可能に思えるような目標を掲げてそこに向かっていくのも良いだろうと思う。仮にそれが成し遂げられなかったとしても、そのプロセスには後付けでどんな意味も付加しうるし、なんなら意味なんかなくても誰も責任を負わない。
しかし、労働者はそうはいかないだろうと思う。
実務を行うわけでもなければ、行き届いたマネジメントをするわけでもない(=無能)上司から、言葉の響きだけは立派な、小学校の脇に立っている看板に掲げられたスローガンみたいな目標を打ち立てられたところで、「はあ」という嘆きとも諦めともつかないため息みたいな声しか出ないのである。
どうせ実現できない目標なら、誰も本気で行動に移そうとは思わない。適当にやっているふりをするだけだ。なぜなら、「なぜ達成できなかったのか」と問われたところで、我々は理路整然とその実行不可能性について説明することができるからだ。もちろんそれが上司に理解できるかはわからないけれど。
このような状況下では労働者はモチベーションも低く、上司への信頼もなく、質の悪いなあなあな形で仕事をこなすことになる。しかも結果的に「上司からの目標を無視している」状態が当たり前となり、罪悪感もなく受け入れる土壌を整えてしまう。
そんな目標なら初めからなければいい。それなら簡単すぎるくらいの目標を用意し、それを達成させてやった方がはるかに良い。
あるいは各々の裁量で一番いい結果を出してくれと任された方が随分ましだ。なぜなら、少なくともその目標は達成されうるのだから。
そうして不満を抱えて朝会社に向かうとき、そして自宅へ帰るとき、週末のドライブのような心持ちでハンドルを握ることができるだろうか。
アクセルをほんの少し、強く踏んでしまう。
最高速度の標示を大きく超えた速度で夥しい数の車たちが、定款に定められた時刻を守るために走る。
もちろん法定速度だって守らなければならない。たとえどんな不満を胸に、車内に抱えていたとしても。
それでもさまざまな種類の車たちが、労働者たちが、それを破っている。彼らは法律を蔑ろにしてやろうなどとは思っていないだろう。法定速度を遵守する運転者たちを嘲笑ったりはしないだろう。悪いことをして憂さ晴らしをしてやろうなどと思っていないだろう。
もしかしたら、無能な上司の一言がほんの少し、アクセルを強く踏ませているだけなのではないだろうか。
※運転中は安全運転を心がけ、標示速度を守りましょう。
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