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広島風景

 こんにちは、文学フリマ広島のスタッフの山本です。
 今年も8月6日がやってきました。生まれも育ちも広島の私にとっては、感慨深い日です。
 私の父も母も、被爆者です。母方の祖母は、原爆で亡くなりました。75年前のあの日、疎開家屋の解体の手伝いに早朝から市内に出かけた祖母は、原爆に遭い、亡くなりました。骨すら見つかっておらず、市の記録にも残っていません。母は、毎年この時期に、亡くなった祖母の墓にお参りしています。母の姉、つまり私の叔母ですが、毎年この日の早朝5時に、平和公園の慰霊碑にお参りしていました。高齢で足を悪くしたため、数年前からそれもかなわなくなりました。75年は長い年月です。
 平和公園の西の本川橋から、北東の元安橋を結ぶ公園内の道路があり、そこは紙屋町や大手町方面への抜け道になっていて、私も3月まで通勤で毎朝毎晩、バイクで走り抜けていました。平和公園は、年中海外からの観光客や平和学習の人たちが多く訪れていますので、もちろんマナーよく運転していました。横断歩道は歩行者優先です。
 朝、本川橋を抜け、元安橋へ向かう途中、左手の原爆の子の像の前では、毎日のように修学旅行の生徒さんたちが整列しているのがみえました。右手には、被爆建物の平和記念公園レストハウスがあり、しばらく修復工事をしていましたが、2020年7月1日からリニューアルオープンになったようです。それを過ぎ、元安橋に入ると、左奥に原爆ドームが見えます。といっても、通勤時にシビアな安全運転でカッ飛ばしているわけですから、呑気に風景など眺めている余裕はなく、私は元安橋東のスクランブル交差点を華麗に右折して、大手町方面に消えていくのが常でした。

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(写真: 筆者撮影)

 このコロナ禍で、3月には嘘のように人がいない公園になってしまいました。4月以降は私が転職したため、通勤で平和公園を通ることもなくなりました。
 原爆ドームは広島に住む人々にとって、こころの風景として定着しているように思います。広島は路面電車の街ですが、同時にバスの街でもあります。原爆ドームの北側にある相生橋は、路面電車とバスの路線になっており、広島市西部や北部に住む人が市内中心部に向かうときのルートの主流です。路面電車やバスに乗り、原爆ドームが見えてくると、そろそろ目的地だな、と理解するわけです。原爆の悲劇を忘れないために残された原爆ドームは、ランドマークとしても広島市民に親しまれています。
 原爆ドームはもともと「広島県産業奨励館」という建物でした。そう言われてもあまりピンとこないと思いますが、要するに今で言う、イベント会場です。東京ビッグサイトや幕張メッセと同じ、商業イベントを開催するための会場として建てられました。戦前は、美術展も開催され、広島の文化拠点としての機能もあったとのことですから、これはもう疑いもなくイベント会場といっていいでしょう。
 文学フリマ広島が会場としてお借りしている、広島県立広島産業会館ですが、実はこの会場、原爆ドームの二代目にあたります。正確に言うと、広島産業奨励館の二代目の建物です。広島県立広島産業会館のウェブサイトにも掲載されています(https://www.hiwave.or.jp/kaikan/outline/)が、原爆ドームは被爆建物として残され、その一方で、広島の産業界からの強い要望で建設されたものが現在の広島産業会館です。第一回および第二回文学フリマ広島で使用した東展示館および本館は1970年に、隣の西展示館は1990年に開館しています。

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(写真: 広島県立広島産業会館・看板(東展示館前) / 編集者撮影)

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(写真: 広島県立広島産業会館・西展示館 / 編集者撮影)

 ちょっとした話としてご紹介するつもりでしたが、原爆記念日ですので、少々感傷的になってしまいました。令和の時代は感染症との戦いで始まってしまいましたが、なんとか戦争を起こすことのない、平和な時代を守っていきたいものです。(おわり)

2020年8月6日(木)
文学フリマ広島事務局 山本

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