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私は騙されやすいから。

遅ればせながら、あけましておめでとうございます!

昨年は、一昨年よりもnoteを沢山書けてよい年でした。

書く場所は他にいくらでもあったはずなのに、こうしてちびちび、本当にちびちびと続けられているのは(はてブもアメブロもBloggerも続かなかった…)、この場所の居心地がいいからなんだろうなぁと思う。

「居心地のいい場所」って友達でも恋人でもそう簡単に見つかるものじゃないから、読んで字の如く、有難し。謝謝。

どんな人が読んでくれているのかもわからないし、私が日々楽しく読んでいるnoteだって書き手とは会ったこともないものがほとんどだけれど、隠そうとしてもその人らしさが滲んでしまう文章で繋がりを持てているのは嬉しい。

今年もいっぱいお世話になります!!

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年の瀬せまる12月中頃、タイのバンコクに行ってきた。久々のひとり旅。カンボジア、ベトナム、ラオス、インドの経験はあるけれど、世界随一の観光大国タイにはどうやら今まで縁がなかったのか、26歳にしてvirgin thailand。

バンコクに到着して早々、駅からゲストハウスに向かおうとしたところタクシーが捕まらず、やむを得ずトゥクトゥクに乗ったら案の定(?)運転手の兄ちゃんにぼったくられそうになった。

同乗していたタイの美魔女が「アンタこのままだとぼったくられるわよ!!」と教えてくれて、美魔女と一緒に降りて、そしたらタクシードライバーだという妹を呼んでくれた。その妹は、なんと「フリーオッケー!」と言いながらタダでゲストハウスまで送ってくれたのだ。
そして別れ際には日本とタイのお菓子を交換っこして、スマホのインカメで記念撮影するという…。 

のっけからトラブルメイキングでシュールな出会いを果たしたけれど、こうした予期せぬハプニングこそがひとり旅の醍醐味だと思う(このメンタルまで美魔女なマダムからは、クリスマスにもLINEでメッセージをもらった)。

この時のすてき姉妹にもらった優しさは、ずっと忘れたくないなぁと思う。


とまぁ、命こそあったから今こうして話すネタにできているし、もはや忘れられない思い出となって結果オーライなんだけど、元を辿ればたぶん(いや、絶対)トゥクトゥクに乗ってはいけなかった。

トゥクトゥク兄ちゃんの「マダムを送った後に送るよ、さぁ乗ってしまえ!」というジェスチャーを鵜呑みにして、進む方向を自分で確かめずに乗ってしまったから痛い目に遭いそうになった。十分な情報と、自分の判断軸を持っていないと騙される。


無事お宿につけた後はパッタイ食べて爆睡し、二日目以降は屋台で鼻水すすりながらグリーンカレーを食べルーフトップバーに行ってカクテルを飲み…ほぼ市街地のど真ん中でバンコクガールらしい生活を味わってみた(カルフォルニアガールっぽく言ってみたけど言うのだろうか?)。


写真はあまり上手ではないけれど、バンコクのにおいよ伝われ〜〜という思いでご紹介。


せっかくタイまで来たので、最終日は人気の観光スポットにも行ってみた。

バンコク三大寺院としても知られるワットポーで、ちょっとえらく感動して、ふいに涙しそうになってしまった。

顔の造形でしか判断できないのが恥ずかしいけれど、西洋人の顔立ちをした人がタイパンツを履いておみくじをひいて現地の人と笑い合っていて、一方では中東人の顔立ちをしたカップルの写真を、韓国人とよく間違われる日本人の私が撮っていて。

心底、平和だなぁと思って涙腺が緩んだ。

世界全体で見たらそうではないかもしれない。けれど少なくともワットポーで流れているその瞬間は、平和だった。

この巨大なお釈迦様の前でみんな写真を撮っていたよ。

ゲストハウスで寝る前にスマホでチェックした簡単な知識でしかないけれど、タイは第二次世界大戦のとき、東南アジアで唯一植民地にならなかった国だという!(一応、国際系の学科出身なのに…ゼミの先生が聞いたら泣いてしまうかも。)

西に位置するミャンマーはイギリスに、カンボジア以東の国々はフランスの支配下に置かれる中で、タイは歴史上長きにわたってどちらに加担することもなく、中立の立場を保ってきた。けれど第二次世界大戦のときにはそうもいかず、数少ない日本の味方となり結果的に敗戦国となってしまった(にもかかわらず、ミラクル巧みな外交手腕によって独立を保ったんだから優秀すぎ)。

戦後75年に迫ろうとしている今、ワットポーには世界各国から観光客が訪れ、祈り、静かでゆるやかな時が流れている。そんな波乱の過去など、まるでなかったかのように。


楽観論であるとは承知の上で、こんな風に同じ瞬間を生きる個々人の「顔」を知れば、国同士の戦いはもっともっと起きにくくなるんじゃないのかなぁと思わずにはいられなかった。

だって例えば、その地に一人、たった一人でも顔見知りの友達がいたら、まるっとその国を抽象化して見ることは難しくなると思う。


タイから帰国後、すぐさま読んだ伊藤剛さんの『なぜ戦争は伝わりやすく平和は伝わりにくいのか』(2015年,光文社)にも、ちょうどこんなことが書かれていた。

そもそも一般的な国民にとって「他国の人間全体を憎む」ということは非常に難しいはずだ。敵にひとつの「顔」を与えてその醜くさが強調されることで、初めて私たちは敵対心を抱きやすくなるのである。(中略)このように権力者や指導者など具体的な人物を「悪魔」と強調することは、その支配下にいる「国民の個人性を打ち消す」ことにつながっていく。その効果は絶大で、敵国の悪魔のような指導者の下にも、「一般的な市民が暮らしている」というあたり前の想像力を失わせ、その存在を隠してしまうのである。

わたしが旅する目的の根源にある、「もっといろんな美しさを知りたい」という欲求の先には、「世界の絶景100選!どやぁ!」というわかりやすい絶景も当然含まれるんだけれど、それと同じくらい、いやそれ以上に、その地に根付いた市井の人に見る美しさを知りたいということも大きいのかもしれない。


最近の情報接触に関する、こんな示唆も気になった。

アマゾンの購入履歴からほかの本を促される「おすすめ機能」などは、私たちの日々の情報が数多く蓄積されることによって、「より自分が好む情報だけ」に接するようになっている。自分の好みのニュースだけを集めてくれるアプリも人気となっているが、以前よりも自分の興味の「外」の情報に出会う機会が圧倒的に減っているため、他者と共有できる認知が少なくなりつつあるのが現状だ。

こうしたアルゴリズム解析による情報接触については、初めてニュースアプリを使ったときに違和感を抱いたことを覚えている。

アマゾンが自分の好みに即した本をオススメしてくれたときには「どーもご親切に…!」と半ば感動しながらポチポチ押してしまうし、自分の興味の矢印をどんどん伸ばせることは嬉しいんだけれど、ニュースとなれば話は違う。

ミーハーな私の偏った趣味嗜好とは無関係の、ニュートラルな情報が欲しいんだけど、はてさてこれでいいんだっけ?と戸惑った。「自分が興味のありそうなニュースしか知れない」って、冷静に考えてみると結構怖いことだ。


「編集されたもの」は必ず誰かのフィルターによって取捨選択されている。卑近な例で言えば、テラスハウスやあいのりのような“リアリティー”番組だってそう(ちなみにどちらも昔から大好きな番組です!!今も公開と同時に試聴派です!!!)。憎まれ役のあの子だって、画面に映っていない部分では実はめちゃくちゃいい子なのかもしれない。


要は、情報を受け取る時には、編集する側がどんな意図を持って選別していて、見えない向こう側にはどんなピースが落ちているのか、想像力を絶えず持っていたいよね、という…単なるメディアリテラシーの話に落ち着いてしまいました。。あれ。


だって私は、いやきっと人間は、自覚している以上に騙されやすい。

それを思えば尚のこと、たくさんの国に行っていろんなバックグラウンドを持った人と会って、自分の目と耳を使って見聞きして、知り得なかったものの見方や価値観に出会いたいと私は、思う。

そんなの言い出したらキリがないよ〜だって目の前の人の気持ちさえわからないのに〜〜とひとりツッコミを入れながら、やっぱりある一面だけを見てわかった気になりたくない。

わからなくても考え続けたいし、自分なりの判断軸をせっせと磨いていきたい。

そんなことを思ったVirgin Thailandでした。


ちなみに、もし、もしもこの先日本で戦争が起きようとするならば、ただちに東宝さんに「チャップリンの『独裁者』を全館上映してください」と直談判しようと決めている。

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