誤読を疑う、という慎み。
むかし、恋人との別れ際にわたしがLINEで放った一言で、相手を不愉快な気持ちにさせてしまったことがあった。
彼からの返信には、「その言葉が悲しい」とあった。
性格の構成要素を原材料名のように並べるとしたら、まちがいなく一番頭に「やさしさ」がきて「思慮深い」もトップ5にくるような人だったから「悲しい」という言葉を選んだのだろうけれど、きっと悲しさだけじゃなくて、内心ふざけんなこのアマァッ!なんていう苛立ちもあったのだろうと察する。
わたしはそんなつもりで言ったんじゃ・・・と思い否定したけれど、相手が「悲しい」と感じたのであれば、きっとわたしの心のどこかに、無意識に相手を悲しくさせる「そんなつもり」があったのかもしれない。
当然、わたしも誰かに言われた一言にひどく落ち込んだ経験はある。
面倒くさいやつだと自覚しているけれど、それでひとりシクシク涙して、なかったことに…!と割り切れるほど器用でもお人好しでもないから、傷ついたらちゃんと相手に「傷ついたよ」と伝えてしまう。
すると相手には相手の考えがあって、直接顔を見合わせて話すことでわだかまりが解けることもある。そうはいかないことも、ある。
いずれにせよ、相手にどう伝わったかが、コミュニケーションの結果のすべて。そう思う。
けれども、先日ある本を読んで、自分が「傷ついた、傷つけられた」と感じたとき、もしかしたら自分が「誤読」していただけなのかもしれない、感情だけが先走って文脈を理解しようとしなかった自分の怠慢だったのかもしれない、という可能性にも気づいた。
*
平野啓一郎さんの『本の読み方』を読んだ。
平野さんはこの本で一貫して「スロー・リーディング」を勧めているのだけれど、わたしがかつて平野さんの代表作『マチネの終わりに』を読んだとき、そりゃあもう、本当に時間がかかった。読みながら抱いた感想は、先の展開は気になるのだけれど、最後のページを捲りたくなくて仕方がなく、どうか、どうか終わらないで・・・まだこの美しい世界に留まっていたい――そんなものだった。
したら、平野さんは『本の読み方』の前書きでこんなことを言うのだ。
「ページを捲る手がとまらない!」という忙しない読書のための作品ではなく、「ページを捲りたくない、いつまでもこの世界に浸っていたい。」と感じてもらえるような作品を書きたいといつも思っていて、その考えに共感してくれた読者も少なからずいた。読書は何よりも楽しみであり、慌てることはないのである。
ハイハイ、まさにその通りでしたよ平野さん!!と大きく頷かずにはいられなかった(イッキ見した全裸監督の口調がうつりつつある…)。平野さんの思惑は、もののみごとに達成されていたのだ。
この本を読んで、わたしは確かに読書の楽しみ方を再認識した。
「本の読み方」には、スロー・リーディングを実践する章も設けられていて、シャーペン片手に、「しかし」には印をつけて、重要箇所には傍線を引いて、丸でつないで因果関係を整理して・・・などなどの作業は、学生時代の面倒くさい読み方が懐かしくもあり、あぁ、この「面倒くさい」読み方こそが読書に深みを持たせ、興奮をもたらしてくれたんだよなーコレコレ!と嬉しくもなった。
そしてこの本が教えてくれた「本の読み方」は、日頃のコミュニケーションでも応用できる点があると思ったのだ。
ある作家のある一つの作品の背後には、さらに途方もなく広大な言葉の世界が広がっているという事実である。どの一つの連鎖が欠落していても、その作品は生まれてこなかったかもしれない。言葉という物は、地球規模の非常に大きな知の球体であり、そのほんの小さな一点に光を当てた物が一冊の本という存在ではないかと思う。一つの作品を支えているのは、それまでの文学や哲学、宗教、歴史などの膨大な言葉の積み重ねである。
読書で大切なことは、自分の感想を過信しないという態度だ。カフカのような難解な作品は特にそうだが、どんな小説でも、数年経って読み返してみれば、きっと違った感想を持つだろう。だから、読み終わって感じたことに対しては、「今の自分にとっては、こう感じられた、でも、数年経ったら、また変わるのかな」というくらいの「かりそめ感」をいつも持っていたい。
このことは、読書のみならず、”読LINE"、”読メール”でも同じことが言えるのではあるまいか…?さらには、音のまんまの会話でも。
もちろん、私たちはプロの作家のように、口にする一言一句に意図を巡らして、企てを持っているわけではないし、魂を注げているわけでもないし、そんなことはインポッシブルだ。
けれど、吐き出された言葉のウラには、その人が幼少期に親に言われた言葉、読んできた本や漫画、繰り返し観た映画、恋人に投げつけられた台詞、友達との他愛ない会話・・・などその人が人生で接してきた文化とコミュニケーションの集積が潜んでいるはずだ。
なのにわたしはどうしても「傷ついた」と感じたとき、感情優位で、自分にとっての常識の中だけで判断し、カァッとなってしまう。
もちろん、「なぜこの人はこう言ったんだろう?」と考えはする。それでも沸き立った感情を冷ます時間が不十分なうちは、まだまだ相手の歴史に思いを馳せられていない。自分と相手の間に流れる川幅の大きさに気づけていない。
いつだって、決まってお互い様なのに。
時が経てば、いつも反省してばかりだ。
「自分の感想を、過信しない」平野さんが唱えたように、人とのコミュニケーションにおいてもまた、謙虚さをもっていたい。
どうせ日を置いたら、自分が抱いた感想なんていとも簡単に変わるのだから。
なにはともあれ、そもそもLINEやメールでのやりとりは昔から苦手なので会って話がしたい。
完全に、「100通のメールよりも1回のデートを」に賛成派です。
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