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教員時代、必死で時短と効率を考えて働いていた

こんにちは、ぶんちゃです。
2歳半の発達障害グレーゾーンな娘の母です。
大学卒業後から出産前まで、教員として働いていました。

育休も取得し、復職を目指してはいましたが、娘の発達と向き合いたいこと
私自身、家事も育児も仕事も…となると、キャパオーバーを起こしてしまうこと
とにかく、家族が笑顔でいられる過ごし方をしたいこと
という理由から、教員を退職し、今は在宅でハンドメイド作家として活動しています。

ハンドメイド作家として、バッグを製作販売しているのですが、Instagramでは、バッグのことだけでなく、教員時代の、私の働き方についても発信しています。
バッグも「時短」働き方も「時短」
私の発信テーマは「時短」にあります。

今の教員の仕事って、本当に多岐にわたっていて、全部を丁寧にやってしまうと、24時間のうち、20時間仕事に充てても終わらないのではないかな?と思うほどです。

「働き方改革」と言われていても、いうほど仕事自体は減っていません。
むしろ増えているのでは???

制度や仕組みは、声をあげていてもなかなか変わっていかないのが現状です。
なんなら、教育って昭和から大きく変わってない気がします。(新しいことは確かに増えているけど、昔からのものもそのまま)

そんな中、働き方をどうにかするには、自分でやり方を工夫するしかないんですよね。
それか、「教員ってそういうもんだから。プライベートなくして子どものために働くぞ!」と謎の決意を固めるか。

私は、「早く帰りたい」「でも、授業や学級経営に絶対全力を尽くしたい」という考えでした。

必死で、「時短」につながるやり方を考え、「効率よく」「子どもの成長・発達を見逃さず」を毎日毎日考えました。

前置きが長くなりましたが、今日はその、「時短」に必死だった時のことをお話しします。

10代から抱えていた私自身の課題

まずは私自身について。
実は私は、10代の頃から婦人科に通っていました。
生理痛が酷く、毎月立ち上がれないほどの痛み、意識が遠のくほどの吐き気や腹痛でした。
働き出すまでは、病院に行っても、どんなに検査をしても異常はなく、医師に
「ただの生理痛です。あなたはちょっと痛みに弱くいのね。痛み止め出しときます。」
と言われるだけでした。

だから、学生時代は
「私って痛みに弱いんだな。みんなはこの痛みの中でも、体育も授業も休まず受けているのに、私って、弱いやつなんだ。働くまでに、強くならなきゃ、耐えられるように頑張らなきゃ」
と思って過ごします。

そして、いざ、社会人となって働き出します。
もちろん、毎月の生理痛に変化はありません。むしろ、どんどん酷くなっている感覚はありました。
しかし、ずっと病院にも通っていて、病気もないので
「慣れない仕事で疲れてるから、痛みがキツく感じてるんだ。自分に甘い。痛いからって疲れてるからって休んじゃだめ。」
と思いながら、過ごします。

授業の合間に、子どもたちの見えないところで座り込み、痛み止めを3時間おきに服用し、変な汗をかきながら授業していました。

しかし、ある日、とうとう限界が来て、子どもの前で立ちくらみ、派手にこけました。
そこで初めて、先生方にも私の体調がバレてしまいました。(当時はこの感覚だった)

また病院を勧められて、引っ越した後だったので、養護の先生に新しく病院を紹介してもらいました。

初めて診断がついた

ずっと、自分の弱さだと思っていたのですが、この時行った病院で初めて診断がつきました。
みなさん、ご存知ですか?
月経困難症 と言います。

なんの病気もないけれど、日常生活に支障をきたすほどの生理痛を伴うことをいうそうです。私は、痛みに弱いわけではなかった。
少し救われました。

でも、だからと言って、なんの治療法もありませんでした。
根本解決の方法は、「出産して体質が変わること」くらいしかないと言われました。
他には、対処療法として、
ピルで排卵を止めて周期を整えることで、痛みを軽減させるのが唯一できる治療。
副作用もありますが、何種類かのピルを試して、ただ一つ、副作用も最小限で自分に合うものと出会いました。
土日に周期を合わせられるので、独身時代はこの方法で仕事を休むことは無くなりました。
ただ、痛みは軽くなったとはいえ、土日もたまに寝たきりになる日もありましたが。

仕事を休む心配も、子どもの前で倒れる心配もしなくてもよくなったのは、とても良かったです。
この頃に、18時退勤のベースを固め、仕事終わりにジムやヨガ、料理を楽しみなど、仕事もプライベートも充実させる術を身につけていきました。
(言わずもがな、この時期は学級経営も授業もとても良好で、子どもたちと過ごす毎日も保護者対応も楽しくて仕方がなかった)

ただ、結婚後はそうもいきません。

子どもを望むなら、ピルは続けられません。
ピルをやめると、生理痛も元通りにMAXの痛みに戻るし、平日にかぶることも避けられません。

でも、私は、子どもも産んで育てたかった。我が子に出会いたかった。

ピルをやめる時点で、校長先生には全てお話ししました。
休む可能性や、妊娠を希望していることを。

毎月休む日々

案の定、毎月のたうち回るほどの痛みでした。
なんなら、独身時代のピルで、少し痛みの楽な時期、仕事に影響しない日々を経験してしまったので、余計に辛く感じました。(仕事も重役を任されるようになってきて、よりしんどさも増していたとは思います。)

初めのうちはちょっとでも動けそうなら、と出勤しました。
でも、だんだんできなくなります。

というのも、ただ、生理痛がしんどいだけではなくなりました。
毎月、「赤ちゃんには会えません」という宣告をされる日でもあるから。

今月も無理だった。

というのは妊活が3年続いたあたりから、心身ともにキツくなりました。

毎月、精神的ショックと痛みに耐え。
数日休んだのちの出勤は、たまった書類や自習で行ったプリントや課題の丸つけの山。
どんどん貯まる仕事。
あっという間に訪れる次の周期。
妊活どころではなくなりました。

でも、それじゃあ結局しんどいまま。

悪循環。

元々、早く帰りたくて18時退勤は続けていましたが、ピルを辞めてからはなかなか思うように帰れない日が増えました。

休んだ分の溜まった仕事。
次の休みに備えてストックする課題。
休んでも授業が遅れないように。
でも、教えこみではなく丁寧に、考える授業をしたい。

このままでは、どんどん帰れなくなる。
そう思って、さらに工夫を重ねます。
バッグなどで行う効率化はこの頃からです。
ほんの少しの無駄も省いてとにかく授業準備にあてたかった。

マインドは2年目頃から変わっていないのですが、物理的な効率や便利なもので時短を目指すことも始めました。


授業と学級経営に支障は出したくない
とにかく、この思いだけは持ち続けていました。
早く帰って、メンタルと体調を整えないと、悪循環なので、残業を続けるのは嫌でした。
でも、早く帰るために、授業準備が疎かになったり、学級経営をなんと無くしたりするのは絶対したくなかったので、苦悩の日々でした。

結果と事実

正直なことを言います。
これだけいろんな工夫をして、努力もして、早めの帰宅も心がけて。
それでも、私は過労で倒れました。

ここまでの流れだと、
「たくさんの工夫をして、苦労しながらも、仕事を全うした。
 その結果、子どもも授かり、育児する中で、
 我が子と向き合うために退職を決意した」
と思わせていたらすみません。


嘘はつきたくないので、正直に言いますが。

その後、妊娠もできず、仕事は増え続け、
工夫しても工夫しても、ひっきりなしに(同僚・保護者関係なく)誰かに相談を持ちかけられ
自分の学級事務に取り掛かれるのは
全員帰った後。

何がどうなって、そんな働き方になってしまうのか
自分でも理解できなくなり
鬱で休職しました。

当時あまりにもしんどくて
「妊活を生活の中心に置きたいです。分掌を少し軽くしてほしい」
「せめて、妊活に専念し、子どもの教育も全力を尽くすために、知的学級の教室や子どもとの過ごし方を整えてきた。なんとか引き続き次年度も知的学級をさせてほしい」
(これまで、知的学級を担任すると、数年続けて知的担任の先生が多かったので、私もそれがしたくて…)

こんな無理なお願いもしました。
しかし何一つ、叶わず、

・研究副主任(前年度まで研究主任)
・特別支援コーディネーター
・特別活動主任
・初めての情緒学級担任
・全学年フル人数
・他の特支担任は20代前半の講師(めっちゃ頑張って、励まし合える子だったのが本当にありがたかった)だから、その子やその学級のフォローも頼まれた
・同じ階の新卒講師の子のフォローも頼まれる
・職員室へ帰ると「ぶんちゃ先生はこの学校長いし、なんでも知っててフットワーク軽いから、わからないことはなんでも教えてもらうといい」という校長の謎フォローによって、全職員から第一質問者に認定
・支援員さんが全員退職されて、支援員不在の中考える支援計画


と、私のキャパには似合わない仕事と、当たり前ですが、その他の分掌や、学級事務をしていました。
その中で、上記で述べていた、自分の体調のための準備対応が含まれます。

本当にできる人、容量のいい人、賢い人なら、こなせたのかもしれません。
でも、私には難しかったです。

でも、不妊治療してなければ、乗り切れたとは思います。
だから、私やってた取り組み自体は、多くの先生方にも活かせるのではないのかな?と考えています。

もし、不妊治療してて、そんな中で頑張る術を探して、読んでくれてる方がいたら、すみません。
私は、最終的に鬱で休職し、鬱治療と不妊治療の末、子どもをようやく授かりました。

私の場合、悩みを相談できる人、共感し合える人、工夫を一緒に試行錯誤できる人がいなかったのも、しんどくなった原因かもしれません。


だから、今、
「早く帰りたいけどどうしたらいいかわからない」
「仕事もプライベートもどちらも頑張りたいけど、工夫してる余裕もない」
「効率なんて考える暇もないくらい忙しい」

と感じてる先生を少しでも支えたいと思っています。
そのきっかけに、時短技の共有や、バッグ販売をしています。


私の経験や知識が、少しでも役に立つなら

出し惜しみなく全て共有していきたいのです。


当時の私は、それが欲しかった。

まとめ

長くなってしまいました。ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。

年齢や経験とともに、どうしても分掌って多くなるし、責任も内容も重くなりますよね。仕事だけで全力を注ぐ人生なら、きっと楽しいのでしょう。
でも、誰しもプライベートがあるし、なくてはならないです。

プライベートも仕事もどちらも両立するには、上手に取捨選択をしたり、時短技のようにうまく省略できる行動を見つけて効率的にしたり、やはり工夫なしではできないな、と思います。
私が必死で色々な工夫を続けたのも、そういった理由から。
何がなんでも両立したかった。仕事も我が子も諦めたくなかったから、当時色々なことを悩み、考え、行動し続けました。

私もそうだったけれど、その工夫も、一から考えてやってみる時間すらないのも現状ではないでしょうか?

考える時間を、少しでも私のnoteの記事やInstagramの投稿で短縮してもらえたらと思います。
たった1人でも、悩んでる人が笑顔になれるなら。




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