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銘菓と旅とライブが恋しくて/ゆたかさの行方


外に出なかった2020年のゴールデンウィーク

今年のゴールデンウィークは、新型コロナウィルス感染拡大に伴う外出自粛要請中だったため、帰省できなかった。

実家まで片道車で4時間半。夜の山越えは、未知との遭遇ならぬケモノとの遭遇に気をつけながら運転するが、新緑が弾けるゴールデンウィークは、毎年ドライブを兼ねて明るいうちに帰省することがほとんどだ。爽やかな風と緑に、躍動的な季節のはじまりを感じる5月。個人的にもっとも好きなシーズンなのだ。

仕事も帰省も旅も外食もしないゴールデンウィークなんて、何十年ぶりだったろうか。幸い家に籠ること自体は好きなので、全然嫌ではなかった。むしろ、ドラマやライブ配信、読書などを楽しみつつ、掃除したり遠方の友だちと長電話したりと、なかなかの充実ぶりだった。


それなりの充実感に足りなかったものは、足元にあった

ところが、その最終日になって「何か足りないぞ」と思い始めた。そして無性に香梅の菓子が食べたくなったのだ。「香梅」とは、私の住むまちの銘菓「誉の陣太鼓」や「武者がえし」を製造する老舗菓子メーカー「お菓子の香梅」のこと。

なぜこの菓子が食べたいのか?

しばらく考えて気がついた。いつも実家への土産に香梅の菓子を買って帰る。それは同時に、自分も実家で食べる機会があるということ。つまり、今年のゴールデンウィークは香梅の菓子を食べていなかったというわけだ。

ヒトの体とは、そんな些細なことまで気づかせてくれるのか。

菓子ひとつのために外出するわけにはいくまい。仕方なくスーパーへの買い出しの日まで待って、近所の香梅へ立ち寄って菓子をいくつか購入。「武者がえし」は上品な小豆餡でコーヒーに、並菓子の「黄味しぐれ」や「十六夜」は濃いお茶によく合う。ああ、これこれ。この味だ。

いつもの銘菓ひとつ、食べるだけで安心するものだ。それを4年前の震災の際、身を以って知ったのに、その感覚を忘れていたことにショックを受けた。当時、西原村にあった香梅の工場は大きな被害を受け、製造ラインが停止。その年の6月半ばに「誉の陣太鼓」の製造が始まったとニュースで知ったときは、数日後買いに走ったっけ。それでも他の菓子はしばらく店頭に並ばず、いつもの商品が全部揃ったのはずっと後のことだったと記憶している。「マルキン食品」の納豆と「五木食品」の麺類も然りで、全ての商品が並んだのを確認したときはうれしくて仕方なかった。

我がまちの銘菓は、知らず知らずに暮らしに馴染んで「在って当たり前」になっていた。自分の足元に転がるゆたかさは、いつも何かが起きてからでないと気づけない。まさか、こんな気持ちでまた香梅の菓子を食べることになるとは思ってもみなかった。

しかし食べてほっとしたところで、物足りなさはまだ完全には拭えなかった。

そうか。
「隣のおばちゃんは黄味しぐれが好きだったよねー」とか「お供えなのに、半日で引いて食べるの早すぎじゃ!って、あの世でお父さんが言いよるわ」とか、菓子を頬張りながらの会話が無い。そして裏山からの風や線香の匂い、猫のスリスリといった実家の気配も無いのだ。ヒトは五感で動く、生(なま)ものだと痛感した。


自分なりの“ゆたかさ”の行方

この数ヵ月で働き方が変わった人もいれば、人付き合い方が変わった人もいるだろう。消費の仕方も変わっただろう。お金さえあれば、家に居ながらいくらでも欲しい物は買えるし、観たい映像も観られるし、リモートで世界旅行だってライブだって楽しめる。事実、コロナ不況の自分も貯金を取り崩しながらだが、それなりにゴールデンウィークを過ごすことができた。

けれど、そこでは新しい出会いの確率がきわめて低かった。全く興味が無かったものに、いきなり飛びつく無防備さや直感は、もはや許されないような世の中になっている。

検索すれば、ピンポイントで探しものはすぐに見つかる。最短だ。しかし、例えば書店では、知らない本がずらりと並び、手に取ってパラパラと眺めたりあとがきを読んだりして、いつしか目的以外の本に夢中になっていることがある。そんな出会いの広がりは、現場に行かなければできない。

世界旅行も、SNSで美しい映像はいくらだって見つかるし、地図を眺めるのも悪くない。まわり道なく時間を無駄にせず楽しめるだろう。だけどそこから、旅に出るまでのドキドキや行き当たりばったりの出会い、また人の湿気や大地の匂いといった風土を感じ取るのは難しい。旅の一番のおもしろさって、そこなのに。

ライブだって、チケットを取ってバスに揺られて現地へ行って、熱気を肌で感じて夢から醒めて、ついでにその土地を知って帰るところまでひっくるめて、生のライブの良さだから。どうやったって配信はあくまでも代替手段。本当は、あの興奮の渦の中で身をよじらせ、高らかに音楽を受け止めたいのだ。


こうして書き連ねていくと、考えることを棚に上げてきたことばかりになってしまった。


・いつもそこに在るものは一生在るという勘違い
・検索結果により勝手におすすめされるモノから選ぶのは、人生の省略になってやしないか
・ここ数ヵ月のみならず、10年ほど生物としての勘が明らかに鈍っている


なんだか「君、もう待ったナシですよ」と言われているような気さえしてきた。そしてこの環境下、時間を無駄にせず生きていく手段は人によっては有効だし否定しないけれど、自分は向いていないのだと悟った。

こうして考えたことを記しておくのは、それを忘れないため。当たり前の楽しみや習慣を見なおすのは、頭を使うのでとても疲れる。しかし自分にとってのゆたかさを勝ち取るには、自分で考えなければ意味が無い。まだまだ悶々と考える日々が続く。



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