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僕が哲学を志した理由

僕の高校時代は、ずいぶんと悲惨で、空虚なものだったと思う。
一年生は、クラスに友達がいなかった。体育で二人組を組まされると、たいてい一人余って、赤っ恥をかいた。
二年生になり、クラスが変わり、わずかに喋れる友達は増えたものの、自称進学校において、勉強もスポーツもできない落ちこぼれに対する視線は冷ややか、いや、もはや周りの目に映ることすらなかったのだろう。恥をかく頻度も、一年の頃と比べれば減ってはいたがまだまだ存在していて、ひたすら現実逃避をしているうちに一年が過ぎた。あんなに思い出のない一年も珍しいと思う。
三年生となり、学校は受験一色。僕のクラスは、半分くらい優秀な子がいて、その下に優秀とはいえなくとも真面目に頑張ってる子がいて、そのまた下に、僕のような受験において大した結果は出せないであろう学校的にお荷物な子がちらほらといった感じだった。なので、とても肩身の狭い思いで一年を過ごした記憶があるし、卒業式が終わり、どうせちょっとしたらフォルダー整理で消すことになる写真をみんながあほみたいに撮っている中、誰もいない通学路を、思わず泣いてしまいそうになるほどの解放感を噛みしめながら、一人颯爽と(自分で言うな)歩いた思い出がある。ちなみに、浪人の悲しみよりも卒業の嬉しさの方が勝っていた。

以上が僕の高校時代なのだが、なぜこんなくそつまらない経歴を紹介したかというと、別におしゃれイズムやアナザースカイに出ている俳優を気取っているわけではなくて(いつかでてみたい)、これが僕の進路に影響を与えたからだ。つまり、こんなみじめな思いをしたせいで?したおかげで?哲学を学ぼうということになったのだ。今回はそこについて書こうと思う。

哲学”的なこと”を考え始めたのは、高校一年、地獄のソロ活動時代である。
友達がいなかったので、休日はもちろん、授業の合間の10分休み、昼休み、移動時間、全部ひとり。よって、たいていは本を読んだり、自分の世界に入りこんで「もし銃を持った不審者が教室に乗り込んできたときに、どうやって銃弾をよけて逃げ切るか」を想像したり、たまに一軍の運動部所属野郎とその腰ぎんちゃくから下手ないじりをされてうんざりするだけの日々。
そんな毎日を送っていると、嫌でも疑問が湧いてくる。


こんな人生に意味はあるのか


一日のうちで最も疲れるのは朝の満員電車。あらぬ方向に体を曲げ、名も知らぬおじさんたちにサンドイッチされていると、ふと思うのだ。
「こんな大変な思いをしてまで行くほどの場所なんだろうか...」
本当に分からなかった。もっと寝てたかったし、美女ならまだしも、おじさんにぎゅうぎゅうに挟まれて、駅から学校までは遠いし、友達3,4人の集団がゴロゴロいる中一人歩いていくのもなかなかしんどい。顔見知りがいた日には気まずくてしょうがない。そんな大変な思いをした後、テスト前だけ借りられるノートを取り続ける意味って?最早顔見知りですらない奴にいじられる意味って?(マジで誰?)こんな人生を過ごす意味って?

日に日にそんな思いが強くなる中、自分の祖父母が相次いで亡くなった。
二人とも晩年は病気との戦いで、衰えているのは明らかだった。それでも、二人が死んで思った。

死とはなんて呆気ないのだろうか


二人との思い出がよみがえる。あんな元気だったのに、死ぬときはあっという間だ。あんなに動いていたのに、目の前にいる祖父母は、ピクリとも動かない。
実際、僕が知っている二人の時間は、彼らにしてみればほんの僅かであり、その背後には辿ってきた六十余年の歴史が存在している。それでも、身近な死(二人称の死)を経験して、自分の人生が如何に短いか、如何に儚いか、僕ははっきりと実感を持った。
当時16歳、80年生きると考えたら残り60年余り。労働を始めれば、時間と共に老いが一気に攻勢を強めてくるだろう。そして気が付いた時には、体の自由が聞かなくなり、頭の回転も鈍り、もはや死を待つだけの状態となる。そう考えると、この世界に生まれ、たかだか八十年ぽっち生きるという作業に、一体何の意味があるというのだろうか。
若くて、希望に満ち溢れ、自由に自分のやりたいようにできるはずの時に、一体自分は何という時間の過ごし方をしているのだろうか。
そうして、人生に対する疑問は一気に深くなっていき、「そういえば、人間は”わたし”という存在をどのように認識しているのだろうか」「そもそもこの世界ってなんで存在するんだ?」という風に、暇な時間がそうさせるのか、今まで考えたこともなかったようなことについて考えるようになり、「こうなったら、いっそのこと大学で哲学を学んでみよう。そこで答えを知れるかもしれない」ということで、今に至る。


もし誰かに「哲学科に進んでよかったか?」と聞かれた場合、本当は自信をもってYES!と答えたいのだが、よりによって就職できなさそうなので、お答えは差し控えさせてもらうことにする。(自分で切り出しといて?)

だが、もしこれを読んでくださっている方の中に、大学で哲学を学んでみたいけど不安、哲学書なんて読めるかしら、と思っている方がいるならば、安心して学んでみてくださいと申し上げたい。哲学なんて社会の役に立たないじゃないか、と思われるかもしれない。哲学を学ぶ人なんてほんの少ししかいないかもしれない。
僕は、だからこそ学ぶべきなのだと考えている。とにかく無駄を省いて合理的に!なんて世知辛い世の中だからこそ、哲学の素養がある人は貴重なのだ。はっきり言って、僕はとても哲学を専攻している人間とは言えない知識量だけど、それでも、哲学に触れてみて、どこか考えに幅が出たような気がしている。(あくまで気がしているだけだし、自分のことを貴重な人材だと言いたいわけでは毛頭ない。)

今回は以上になります。次は高校時代についてもっと詳しく書こうかしら。落ち込むからやめようかしら。



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