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東京消費 #6 香水「FUEGUIA 1833」sandz

 食・ファッション・工芸――。東京には国内のみならず世界各地から洗練されたものが集まる。「消費」には必ず対価がある。洗練されたものを手に取り、比較し、楽しむ。幾ばくかの使えるお金があれば、東京は今なお世界でも有数の楽しめる都市だ。
 インバウンドが徐々に戻り、アジアの大国・中国からも大勢の観光客が来日しつつある。〝爆買ばくがい〟の時代は終わった。これからは、まだまだ広くは知られていないが、洗練されたものを探し求める時代だ。
 中国語と日本語を話し、東京を消費によって楽しむsandzさんず。この連載では、sandzが日々楽しむ食・ファッション・工芸を紹介する。


 香りに紐づいた記憶というものがある。

「気になる香水があるんだけど……」と、当時付き合っていた彼に誘われて、僕はその店を訪れることになった。

 六本木のグランドハイアット東京。広々としたロビーから少し奥に進むと、重たく濃密な香りが徐々に立ち込めてくる。

 香りのもとをたどると、格子入りのガラス壁の奥に濃紺を基調とした店内が見えてくる。よく見てみると、抑制的なスポットライトに照らされた金色の文字が外壁にぼんやりと浮かび上がってきた。「FUEGUIA 1833」――。

 入店してまず驚いたのは、大量の香水の瓶が整然とディスプレイされていることだった。しかも、何やら香水の瓶のふた部分には逆さまにしたフラスコが乗せてある。

 話を聞くと、香水のお店でよく見かけるムエット(試香紙)を使うのではなく、フラスコの中に閉じ込められた香りをテイスティングするそうだ。香水は常に100種類程度、取り揃えているという。

 その日、僕はあくまで彼の付き添いだった。しかも、店を訪れる少し前に普段使っている香水を新たに買っていたこともあって、さらさら購入するつもりはなかった。

 しかし、せっかく訪れたのだからと店員さんが僕の好みの香りを聞き出して、「Humboldt」という種類の香水を薦めてくれた。

 フレッシュな柑橘系にほんのりバニラも加わり、重くも軽くもない絶妙なバランス。商品名の「Humboldt」は、どうやらドイツ人の探検家であるアレクサンダー・フォン・フンボルトを指しているという。フエギアには、南米文学の作家や作品、南米大陸の風土、歴史に名を残した偉大な人物などのシリーズが10種類あり、「Humboldt」は偉人シリーズのうちの一つだ。

 この商品のコンセプトについて、ブランドのECサイトにはこんな一文があった。

 Behind the mist, the sound of an Indian biting a glistering passion fruit. Alexander Von Humboldt is seduced by the fresh air.
(朝もやに紛れてネイティブアメリカンがしっとり濡れて光るパッションフルーツを食べる音が聞こえてくる。探検家アレクサンダー・フォン・フンボルトはその爽やかな空気にすっかり魅了される)

 こんなふうに、それぞれの商品の香りが詩的に言語化されているのも面白い。あまりに好きな香りだったので、数日後に改めて店を訪れて購入してしまった。毎晩、寝香水として使っている。

 彼のほうは、「Juan Manuel」というローズにはちみつを混ぜたような、甘い香りの香水を買っていた。

「FUEGUIA 1833」はアルゼンチンの首都・ブエノスアイレスに2010年に設立された。すべての商品に植物由来の天然香料を使用しており、大量生産ではなく、小ロットで調香を行っているという。

 有名メゾンの場合、一般的には常に同じ香りの香水を作り続けるが、フエギアの香りはロットごとに〝ゆらぎ〟があると言われている。あくまで天然香料を使うことにこだわっているため、変わることをネガティブに捉えていないのだろう。ワインやコーヒーが生産年ごとに味が変わるのと同じだ。

 香水のボトルには製造年(エディション)と、製造番号が記載されている。1ロットにつき400本しか製造しないそうだ。

 六本木のお店に行って以降、自宅からのアクセスの良さから僕と彼はGINZA SIXの店舗に足を運ぶようになった。何度か通っているうちに、アジアからの観光客が多く店を訪れていることに気が付いた。

 フエギアは世界に9つの店舗を構えている。ブエノスアイレス・ミラノ・ニューヨーク(2店舗)・ウルグアイ・ロンドン・メキシコシティ・東京(2店舗)――だ。加えて、この11月には東京・麻布台ヒルズにも新店舗がオープンする。

 アジア圏で唯一、東京に店舗を構え、しかもこの秋にはニューヨークよりも多くなる3店舗目をオープンする。その不思議を考えていたときに、銀座の店舗を訪れている多くのアジアからの観光客の姿が僕の頭に浮かんだ。おそらく、東京は日本の人々の市場ではなく、アジアの人々の市場と見られているのだろう――と。

 店員さんからこんな話を聞いたことがある。日本の人々に対しては、「Muskara Phero J.」というすべてのフエギアの商品のベースになっている香水が最も売れているそうだ。南米発のエキゾチックでユニークなブランドにもかかわらず、いわば最も特徴のない(その人固有の匂いを際立たせる)香水が人気なのだ。

 それでも彼らは東京に店舗を出す。これもまた、ブランドが「東京=日本」ではなく「東京=アジア」と見ていることの一つの表れかもしれない。

 彼がつけていた「Juan Manuel」は、19世紀にアルゼンチンで活躍した政治家のフアン・マヌエル・デ・ロサスをイメージした香水。偉人シリーズの一つだ。

 フラスコで試香した感じでは男性には甘すぎる印象だったものの、穏やかで優しい見た目の彼がつけるととてもしっくりきた。

 僕と彼は、いまでは別々の道を歩んでいるけれど、何かの拍子にあのローズにはちみつを混ぜた甘い香りがすると、彼の優しさや大きな背中、穏やかな笑顔を思い出す。
 
 香りに紐づいた記憶は、記憶域のなかでも奥深いところに刻み込まれている。そんな気がするのは、僕だけだろうか。



sandz(さんず)
バンタンデザイン研究所大阪校を卒校後、2009年に上京。2011年に創価そうか大学に進学し、在学中に北京に留学。同大と北京語言ごげん大学の学位を取得。中国漢語水平考試かんごすいへいこうし「HSK」6級(220点以上)。中国語検定準1級。
Twitter : SandzTokyo
Instagram : sandzager

写真:Yoko Mizushima

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