普通と特別のあれこれ
「普通と特別は紙一重」
最近そんなことを繰り返し考えている。
夜ご飯、一緒に食べます
考えてみれば今年の初めはまだ、人より何かを成し遂げることにすごく固執していた気がする。
普通は埋もれてしまう、だから何かしないとという気持ちでいっぱいだった。
ありえないくらいにバイトをして、週末は地元から離れたところに足を伸ばすような生活に半年間も飽きずにハマっていたのも、それが理由かもしれない。
けれど、生活は何か変えるとまた何かが気づかないうちに自然とかわってしまうものだ。私の場合、自分が外に身体や心を向けていくほどに自分の中心にいた家族は少しずつ離れていった。
実際に少し前までは大好きだった母との関係は最悪で、調子が良ければ1日1言程度話す程度の関係だった。家族とご飯を食べることも嫌で、コンビニやスーパーで買ったご飯を自分の勉強机で食べることも多かった。
一番好きな人が一番嫌いな人になった期間は、もう2度と味わいたくないほど心が空っぽだった。
最近はその反動からか、自分の周りの人との時間を大切にしたい。
家族と週4回はご飯を食べると決めてから、「夜ご飯、一緒に食べます」
と母に伝えてから学校にいくようにしている。
普通が普通じゃなくなって、
やっと気付けた特別。
今でもちょっと伝える時には身構えてしまう。だから今は、家族との時間がとっても贅沢な気持ちになる。
普通ってなんなのかしら
Instagramで流れてくる女の子は、いつ見てもキラキラしている。こんな容姿で街歩いたら、絶対楽しいよなとか思いながら指先で無意識に写真を急いでスクロールするのがいつから日課になってしまった。
きっと、頭の中でキラキラした女の子が特別で私は普通だと考えている。だから、羨ましいとかいいなーとか考えるんだろう。自分は自分で満足しているはずなのに、こういう気持ちを抱くのは人間っぽい。
でも、
誰かにとっては私も特別だったりする。
最近5日間障害を持った成人の方が通う社会福祉施設で実習があった。
そこにいた一人のダウン症の女性は、1日目から私を気に入ってくれて、顔をじーっと見ては「かわいい」と伝えてくれた。
これが5日間欠かさず続いて、本当に毎日幸せだった。
そして、その女性は送迎バスに乗る時に私に、もう一つの言葉をくれていたことを知った。外から手を振る私を見て同じバスの職員さんに、「あの子は特別なの」と言ってくれていたらしい。
これも、まさかの5日間欠かさず。
人生で初めて言われた特別の2文字は、身体をくすぐられた感じがしてふわふわした。自分のどこが特別かは分からないけれど、ただただ誰かにとっての唯一の人になれたことが嬉しかった。
私にとっての普通が実は長い時間と経験の構築だとしたら、生きている人の皆んなにとって、共通の普通なことなんて本当はないんだと思う。
皆んな必死に漠然とした普通にしがみついている。
無意識のうちに。
私は1人の人の特別になれた。
あーあ、5日間で伝え忘れてた。
あなたも特別だよ。
トナカイのキーホルダー
フィンランドのお土産の一つに、
トナカイのキーホルダーを3つ買った。
私と、彼と、私と彼を大事にしてくれる共通の友達の3人でお揃いだ。
彼がいつも持つバックにはこのトナカイがいつも顔を出している。
そして、私の学校で持ち歩くバックにも、このトナカイがいつも側にいる。
帰り道に少し彼と言い合いをしても、
そのトナカイを見ると許せるし、
本当に楽しくない授業でも、
そのトナカイを見ると頑張ろうと思える。
今この瞬間に、大切な人の側に私と同じトナカイがいると思うと一人じゃない感じがする。
それに気付けたから、なんか特別な日。
お揃いっていいなぁ。
追記2024.8月
現在彼とはお別れしたので、
トナカイは成仏ぎみです。
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