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夏祭り、苦味、黒い足

バイトで子どもたちを送り届けたあと、空っぽになった車を運転している私。浴衣をきた人たちが、ちらほらと歩いている。住宅街の細い道なので、スピードをゆるめながら進んでいる。小さな公園には提灯がたくさん張り巡らされている。洋服をきてても誰かと連れ立って歩いている人が多くて、みんなが祭りへ向かっている雰囲気。まだ明るい夕方。

高校2年か3年の夏、私もこんな風に浮き足立っていたのかもしれない。当時好きだったM田と一緒に、祭りに行った。私は紺地に赤い朝顔の模様が散らされた浴衣をきて。彼はオレンジ色のTシャツ。上から赤系チェック柄のシャツを羽織っていた。オレンジはM田の好きな色。あの時の私は多分とても、可愛かったね。多分。

父が運転する車で、道すがらM田をピックアップし、祭り会場に向かう。白い車。レガシーとかだったかな。この風景と共にケツメイシの君にBUMPという曲を思い出すのはなぜだろう。車内で流れていたのかもしれないし、祭りにいこうとメールで約束を交わしたその時、テレビで流れていたのかもしれない。M田が好きな曲だった。多分。車で40分ぐらい揺られて、着いたのは自分たちが住む地域よりさらに奥まった田舎。隣の地域。先に進めば神社がある大きな広場についた。まだギリギリ明るい時間だった。屋台がずらりと並んでいたけど、そこに足を踏み入れる手前の、コンクリの段みたいなとこに腰掛けて、M田はスーパーで買ったピザパンを食べていた。そのあと花火をみたのか、屋台で何かを買ったのか、あまり思い出せない。

鮮明に思い出すのは、わりとすぐに「引き返そう」とM田が提案したことだ。車内で2人でグダグダと過ごしていた(鍵がかかってなかったのが不思議だ)。そのうち父にそれがバレて窓をゴンと叩かれた。普段は飄々としている父に、とても遺憾だという表情を向けられたことに、私としては大変気まずい思いをした。そもそも私は祭り会場をうろうろと練り歩きたかったはずなのだが。おそらくこのようはイベントごとに興味が薄く、無意味に暑い中ぶらぶらと体力を消耗することよりもM田はイチャつきを選んだのであろう(しかし、彼女の父の車やぞ?)。まったくもってロマンティックではない思い出が生成された瞬間だった。知的さとユーモラスが共存する、絶妙なM田のバランス感覚にかっこよさを感じていた自分としては、やや俗っぽさに振り切ったM田の一面を垣間見てしまい、居心地の悪さを感じた出来事でもあった。

でもやっぱり、この夏祭りというものが貴重なデート体験だったことは間違いない。日常的にロクなデートスポットがない、田舎の高校生ができる最大限のデートだった。苦みもあるけど、M田と浴衣で連れ立って祭りに行けていたという事実だけで甘酸っぱいじゃないか。苦みに負けて忘れるのは嫌だと今になりしみじみ思っている。忘れたくない。

たぶん、学校の同級生に絶対に出会ってしまう祭りとかいう行事になぞ行きたいタイプの人間ではなかったはずだ。普段から私と付き合っているだのひた隠しにしていたM田だ。いじられるのは大嫌いなシャイボーイ。私は学校のなかでもひときわ声のデカい変わり者だった。誰かに見られようものなら、格好のネタになる。人口密度が低い隣の地域だったのでギリOKを出してくれたのかもしれない。つまりそれなりに私のことを好きでいてくれたということだな。たぶん。今思えば。そのありがたみに当時は気付いていなかった。ドラマティックさばかり期待していた私だ。愚かしい。目の前に幸せがたくさん転がっていた。でもその愚かしさすら若さなのかな。青春。

M田は今ごろ、青い時代の自分をとても遠くに置いて、今という瞬間を見つめているだろう。10代のあの頃。エネルギッシュな変わり者と祭りにいき、彼女の父親の車へ引き返そうと謎の判断をしたのも青春だけど、穏やかに流れる現在の妻との時間こそが自分らしくあり、幸せと感じる瞬間だと極めて自然に、慎ましやかに、噛みしめているだろう。ウッ…。許せない。嫉妬か。

翻って私は。「久々に外出しようかな」無職引きこもりの配偶者が陽気な口調で、ベランダの扉を開けて遠くの打ち上げ花火を見ようとしている。そのあとに続いて自分もベランダに出て、「あの光ってるところっぽいな」などと会話している。ものの数分で部屋に舞い戻ると、足の裏が真っ黒になっている私をみた配偶者が、ありえない!!と嘆いている。「(この家は道路沿いで)物干し竿をちょっとさわるだけでも、指が真っ黒になるのに、素足でベランダにでたらそうなるのはあたりまえだ!」と本気で怒っている。「人の失敗をネチネチ言わないで」と反論する私。

しかし本当に足の裏が真っ黒だ。ベランダに出た時、私は素足ではなく、数ヶ月放置していたスリッパの上に足をのせていた。スリッパという姿形に期待をしすぎた。ずっと使っていないスリッパの上に粉塵が降り積もるのは当然であり、なぜ素足よりましかもしれないと思ったのだろう。希望的観測すぎた。とにかく足が黒い。

そのまま風呂に直行し、足を洗っている。ぼんやり考えている。いつもベランダで洗濯物を干すのは私の仕事だ。私が毎日履くから、その、君がきれいな足でいられたクロックスには粉塵がたまっていないのだ。ベランダ事情について私の方が優位性があるはずなのに、なんだこの有り様は…とやりきれない気持ちになっている。だけどきっとM田もこういう人だろうと足を洗う私は想像している。ただ現実を、そこにあるものをみつめて過ごす人だ。M田も配偶者も。数ヶ月屋外に放置されたスリッパを何気なく履いてしまう私のような人間ではない。

去年も配偶者は打ち上げ花火を見るためにベランダに出ていた。「ちょっと見えた〜」私は室内で報告を聞いていた。ここ1年の間で。M田を好きになって。早く独身になりM田と再び恋したいと強く焦がれると同時に、配偶者を好きという気持ちを再確認するようになっている。目の前に転がっている幸せに気づく自分でいたいと思うようになった。それは青春をあきらめるという意味ではない。目の前のしあわせだけで十分と思うことでもない。やっぱり、ずっとM田に恋していたいのだ。でもそれはけっこう難しい。遠くなっている。恋心。マグマのように噴出してから、1年半をかけてすこしずつ。決定打はやはり3ヶ月前のM田が結婚したという知らせだったのかもしれない。あの臨場感のある恋心はいつからか、もう遠くに行ってしまった。ベランダから見える打ち上げ花火よりも。

だけど、螺旋を描くようにまた戻ってくる。好きになって、好きだったことを忘れて、それで終わりではない。また突如、好きがもどってくる。円を描くように。だけど堂々巡りではない。螺旋のように、同じだけど少しづつ地点がずれている。その時の自分は。もっと強くしなやかにM田を好きになるのだ。幸せがここにあるとわかる、好きな気持ちがあると知っている、感じられる、自分でいたい。

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