首都の品格《⑥テセウスとディオニュソス》

 「テセウスは重苦しさ、重荷を好んで背負いたがる傾向があり、笑うこと、戯れること、軽やかさを知らない。
 テセウスは、肯定するとは担うこと、引き受けること、試練に耐え、重荷を背負うことであると考えている。現実とは重くのしかかるものであり、義務を担うことと考える。それゆえ、テセウスは、大地の荒涼たる表面に住み、担うことを知っている砂漠の家畜――ラクダを象徴とする。
 テセウスは知らない。肯定するとは重荷を背負うことではなく、生けるものの重荷を取り除いて解き放してやることを・・・。たとえ英雄的であっても、その重みで負担をかけるのではなく、生を軽やかにし、新しい価値を創造することを知らないのである。
 つまり、牡牛が世界を軽やかに走り回り、くびきを捨て、高みで安らぐことを理解できないのである。
 ディオニュソス‐牡牛は、真に肯定する者である。彼は何も担っていない、何も引き受けない。彼は人々によって汚されたあらゆる権利を捨て去ることで純粋に生を肯定する。」
                             ドゥルーズ『アリアドネの神秘』

 テセウスとは、ニーチェの著作にしばしば登場する英雄である。テセウスは、背負い、引き受けること、荷車から縁を切る仕方を心得ないこと、笑うこと、軽やかさを知らない。
 東京の風土は江戸以来のタテ社会の名残を残しており、そこでは身分や階級などのタテの軸が一番大事で、「立身出世と見栄」が旨とされてきた。東京では、このタテの序列の中に各人の位置づけがあって、秩序が保たれているのである。こういう社会では笑いは抑制・禁欲され、蔑まれがちである。なぜなら、縦割りが強く意識される社会で笑いを発すると、相手の立場や権威を笑うという風に受け取られやすいからである。
 一方、ディオニュソスはテセウスと同じく、ニーチェの著作にしばしば登場する酒の神である。彼は重荷を担わず、笑い・軽やかさ・戯れをその特徴とする。ギリシア神話の中で、ディオニュソスはテセウスに常に打ち負かされる。しかし、そのたびに、彼は笑い、踊り、そして戯れを始める。ディオニュソスにあって、テセウスにないもの、それこそが世界を軽やかに走り回る能動的な精神に他ならない。
 大阪は商都として発展してきたため、そこではヨコの関係が何よりも大事である。商いで一番大事なのは、仕入先、得意先、顧客とのヨコの関係であり、そのためには笑顔と笑いが欠かせない。商人は笑いを起して関係を良くしていこうとしていく。大阪人は毎日の生活の中で、笑いを楽しみ笑いを活かしてきた。笑いは大阪人の人生と生活を支える屋台骨そのものなのである。

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