9:15
8時になると私は起床する。お布団を畳み、カーテンを開ける。朝日が指した部屋に舞う埃がキラキラとしている。「朝です」と小声で呟いてみる。
私は少しだけ笑顔の練習をして部屋を出た。
「おー、悠太今日も早いねー」鈴木洋介の声とともにキーボードを叩くリズミカルな音が聞こえる。私にとって、この音はすっかりお馴染みの朝の音となっていた。
「おはよ」
ディプレイを覗く洋介の顔がどこか青白く見え、またか、と私は思った。
「また朝まで仕事してたの?」
「そうだよー、もうやってらンねぇよこんな仕事。いまにやめてやるよ」語気が強まる声を聞くに、今朝の洋介の機嫌はとても悪そうだ。
私は洗面台で顔を洗い、コップ一杯の水を飲んだ。乾いた身体に水が滝のように染みていく。この感じ、好きだ。内臓のひとつひとつが目を覚ますような感覚。きっと胃は冷水に驚いているけれど、「ごめんねおはよう」。
「あ、悠太。コンビニ行かねぇー?」
リビングから洋介の声が聞こえる。
「コンビニー?んー、行こうかな」たまにはコンビニで朝食を買うのも悪くないか。サラダを買おう。
「じゃあすぐ行こうぜ。歯磨き粉がもうねぇーんだよ」どたどたと洋介が動き出した。
たしかに、2人共用の歯磨き粉チューブがゴミ箱の中に横たわっていた。
「悠太さぁ、今日仕事終わったらさぁ、どっか旅行でも行かね?」
「え、今日?」
洋介はどこか上の空な表情をしていた。まるで心がここにないみたいだ。
洋介とはルームシェアを始めて2年と半年と13日になる。2ヶ月前くらいからだったか、洋介がひどく落ち込んで帰ってきたことがあった。仕事で大きな失態をしてしまったらしい。それ以来、洋介は毎日仕事を持ち帰ってきて徹夜でキーボードを叩いている。
最近の洋介は、笑うことが減った。
コンビニの入店音とともに冷気が身を包んだ。少しの身震いをすると、すっかり空間が外の喧騒から“コンビニ“に変わる。
「歯磨き粉、前と同じやつでいいよね」と言って私は198円の歯磨き粉チューブを手に取った。
「お前わかってねーなー」ははっと笑いながら洋介が私の肩を叩いて続けて言う。
「旅行行くんだから、こっちだろ?」旅行用の歯ブラシセットを2つ、鷲掴みにした。
「本当に行くんだ?いいけど、どこに行くの?」私はチューブを棚に戻した。
「どこにすっかなぁ、北がいいな北」
「北かぁ、よくわかんないけど、いいね」
「いいだろ、北」ニマッと笑う洋介の顔を、私は未だに直視できない。
共用の財布で支払いを済ます最中、洋介は「タバコの84番」と言ってポケットから520円を取り出しレジに置いた。去年すると言った禁煙は2ヶ月前に終わった。「悪い、吸わせてくれ」と痩けた顔で手を合わせる洋介に、私は「お仕事大変だもんね」と言うしかなかった。
コンビニを出ると、モアっとした暖気とぶつかった。あぁコンビニを出たのか、と脳みそだけでなく体でも感じ取る。
「ちょっと一本吸わせて」と言って洋介はさっそくタバコを一本加えてライターで火をつけた。白い煙が宙に浮かぶ。
「旅行、急だけど楽しみ」
煙を吐き、何も言わない洋介を、私は見上げて見つめていた。
「何があったかとか、聞かないんだ」洋介が遠い目をして口を開いた。
「難しい話、わかんないもん。聞いてもわかんないよ」
「ははっ、そうだな」そして煙を吐きながら「わかんねーよな」と言った。
タバコの火を消し、洋介は大きく伸びをした。
「なんか疲れちゃってさ。何もかも」
私はそれを聞いて、そっと洋介の手を握った。胸の奥が痛む。洋介がいなくなってしまう、そんな気がした。
「とりあえず、帰って仕事の準備でもするかな」
手を払って歩き出す洋介の三歩後ろで、私はついて行くことすら阻まれる気がした。
部屋に帰ると2人でコンビニで買った朝食を食べた。無言で。
「行ってきます」の声に
「行ってらっしゃい」を返そうとしたが、涙が溢れて言葉が出なかった。
9時15分。洋介が部屋を出て行った。