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パラダイス①



 視界全てが青かった。その青も、ひと色ではなく、様々な青色が交じりあい、海と空を結んでいる。
 海面から顔を出して、遠く、汽笛が聞こえた。幻聴かと思えたが、だんだんと近づいてくる流線型の船舶を見つけて、トゥキは目を見開いた。クロールで直ぐさま岸まで泳いでいくと、岸辺に腰を下ろして、蜃気楼を超えてやって来た舟を見つめた。音は、海鳥の声と波音、それから時折の汽笛だけで、刺すような陽の光が、彼を腕を灼いていた。身体はすぐに乾いて、雲は駆けるように彼の視界を横切っていく。美しい銀の舟だった。記憶の隅、幼い頃に彼をここまで運んだ舟、その、朧気な姿形とは異なり、鮮烈な銀の灯りは、彼の網膜に刻み込まれている。同じ色だった。全く同じ。彼は、遠吠えをあげて、汽笛が、すぐに呼応した。呼びかいの鳴き声。

 舟は岸辺から数百メートル離れた浅瀬に停泊すると、錨を下ろし始めた。暫くすると、一隻の小舟が下ろされて、そこに幾人かの人影が揺れた。トゥキは、じっと舟を見つめていた。人影を見つめていた。耳を澄ますと、言葉が聞こえる。美しい音符の連なり。小舟は、エンジン音を響かせながら、トゥキのいる浜辺まで走ってくる。トゥキは立ち上がり、小舟を睨み付けた。岸辺近くまで来ると、エンジン音が止んで、男が顔を出した。短く刈り上げた金髪の、西洋人だった。トゥキは、男に会釈をした。初めて見る顔だった。男は驚いたように、やぁと、口にすると、同じように会釈した。そうして、奥からもう一人が顔を出した。トゥキの心臓が跳ねた。それは、その髪があまりにも細く黒々としていたからかもしれない。美しい女だった。年の頃は、二十か、それ以下か。トゥキよりも五歳は下に思えた。
「ここがアロン島?」
「はい。あなたは本土から?」
「うん。と、いうことは、君がトゥキ君だね。」
男はそう言うと、煙草を取り出して、火を点けた。トゥキは、煙草を吸う男を久しぶりに見た。それは、十年来の遭遇だったかもしれない。煙草は嗜好品に成り果てて、本土でもほぼ消滅したと、二年前までアロン島に物資を搬入していた船乗りが言っていた。
「きれいな島だ。青色しかない。本当に。」
男は、青い目を輝かせてそう言った。大仰に、首を百八十度回して、辺りを見る。
「本土から十時間。秘境だな。」
「お客人は久しぶりです。小屋まで案内します。」
トゥキがそう言うと、男は頷いた。その後ろで、女がトゥキを見ていた。目色は男とは異なって、どこまでも黒い。黒髪と揃えたようで、夜空に思えた。そうして、目の底には星が瞬くようで、視線を動かす度に、きらきらと星砂が光る。
 トゥキの後ろを影のように、二人は着いてきた。男の名前はテイラー、女の名前は泉と言った。
「みずうみ?」
「いずみ。こんこんと湧き出る、泉。」
その名前の響きを聞いて、日本人かと、トゥキは納得した。真白な砂浜を抜けて、椰子の林も超えると、すぐとトゥキの小屋が見えてくる。小屋を見て、テイラーは口笛を吹いた。もっと貧相なものを想像していたのかもしれない。小屋、と自分でも言ってはいるが、本土の港町にある邸宅と、何ら変わりようのない、トゥキ一人で住むにはあまりにも広い、巨大な家だった。
「小屋?」
「僕はそう呼んでます。他の較べる建物がこの島にはほとんどない。あそこにある電波塔と、教会、それから研究所、それだけです。」
「手入れが大変だ。海風も凄いだろう。」
「時間は腐るほどありますから。」
泉はきょろきょろと、辺りを見回していた。何度か振り返り、椰子の木々の隙間から見える白波を見ていた。
「上がってください。コーヒーを淹れます。」
二人は小屋に上がると、リビングの中をきょろきょろと見渡した。暫く眺めて、テイラーはソファに腰を下ろした。
「吸っても?」
「どうぞ。」
二人の会話を横で聞き流しながら、泉はトゥキの部屋に飾られた数多の絵を観ていた。
「絵が多いな。」
泉の視線につられて、テイラーがそう言うと、トゥキはカップ二つを手にしながら、
「趣味です。本土に残されたたくさんの絵、それを買って来てもらってるんです。」
「識らない絵ばかり。」
泉が呟いた。
「僕も識らない絵ばかりです。タイトルをね。識らないんだけど、ずらって並べられた絵の中で、美しいなと思った物を買います。」
泉は、聞いているのか、いないのか、曖昧に頷いて、そのままソファに腰を下ろした。テイラーは煙草を燻らせながら、じっと、トゥキの目を見た。
「交じってる。ハーフか?」
「ネイティブアメリカンの血と、大英帝国の血です。」
「彼女は純血。」
「純血の、日本人?」
泉は素知らぬ顔で視線を逸らした。
「産まれるのはクォーターか。」
「つまり?」
「銀の船舶が来たとき、君は思ったはずだ。ああ、花嫁が来たんだって。」
テイラーは煙草の煙を深く吐いた。紫煙で、部屋が曇って、ブラインドから差し込む陽が拡散し、天井のファンを斑模様に染め上げた。
「ノアの箱船。ようやく見つけた。こいつは純正の人間だ。君と同じ。純正。」
「あなたは複製?」
テイラーは吹き出した。煙が暴れた。
「それ以外あるか?」
トゥキは、泉を見つめた。泉は、その太陽の黒点よりも磨き上げられた黒玉を、トゥキに向けた。美しい脣が匂った。
「純正の人間。二十年、待った。」
「他の舟では上手くいった例がいくつもあった。けれど、多くはない。」
「彼女の同意は?」
「同意なんていらん。」
テイラーは冷たくそう言い放つと、煙草の火を指先で消した。熱耐性の強いのが、トゥキに不可思議な機能だった。彼らは人間とはどこまでも隔てがないのに、人間の身体よりも遥かに頑健だった。その、人間の数倍とも言える肉体の強さがあれば、人間の命など、どうとでも良いのではないのかと、トゥキには思える。
「君は女は初めて見るか?」
「人間は。母と、この人と。」
「俺たちは?」
「複製人間は山ほど。」
テイラーは頷いた。そうして、
「女を抱いたことは?」
「複製人間の幾人かとは寝ました。」
テイラーはまた頷いた。そうして、スチールケースを開けると、中から一枚の書類を取り出して、
「人間を培養する。俺は反対派なんだが、給料が良くてね。」
トゥキは頷いた。役人は給料がいいと、島に来る連絡船の乗員に聞いたことがある。
「いつの間にか、君たちは絶滅危惧種だ。」
テイラーの差し出した書類には様々な事項が書かれていて、トゥキはそれをさらりと読み流した。
「一所に集められれば楽なんだけどな。」
「それはまだ許されない?」
「人間様は俺達の素体だからな。神様に対して、俺達は不可侵だ。」
「神様じゃない。」
「の、ようなものだろう。君たちがいなければ、俺達は此処に存在していない。要は、アダムとイヴだ。」
テイラーは窓外を見つめて目を細めた。彼の目に、陽の光が乱反射して、その瞬きがトゥキを貫いた。
「君たちを番にして子供を産ませる。それこそ不可侵でないとは思うがね。」
「神様の花嫁。」
テイラーは頷いた。要は、泉はトゥキに嫁がされるためにこの地へと運ばれてきた。逃げることに出来ない孤島に。他に、どれほどの人々が、同じように子供を持たされることを熱望されて、海の檻に閉じ込められているのか。
「まぁさ、この書類に早いとこサインをしてくれ。そうすれば、もう俺の仕事は終わりだからな。」
テイラーはトゥキの目も見ずに、呟くように言った。泉は、彼らの話を聞いているのかいないのか、掛けられた絵に、そっと指先を当てていた。

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