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椿姫とマノン・レスコー


私は海外文学では一番好きなのは『椿姫』である。
小デュマこと、デュマ・フェスの恋愛小説である。
『椿姫』は高級娼婦のマルグリットに恋をした青年アルマンの物語だが、
ストーリーラインは非常にシンプルなものである。また、少し古臭い物語だ。青年と美しい女性が出会い、心のすれ違いと重なりを経て、永遠の別離に至る。

何故か私はこのマルグリットという女性に、ドストエフスキーの『白痴』のヒロイン、ナスターシャを重ねてしまう。

『椿姫』は何層にも重なる構成になっている。それは、話の作りというよりも、この作品という器、そして器に収められたものたちが、重層的になっている、という意味である。
デュマ・フェスは自身も20歳の頃に高級娼婦のマリー・デュプレシに入れあげていて、彼女との思い出を小説に昇華した。それが『椿姫』である。
マリー・デュプレシも、作中のヒロインのマルグリットも20代前半の若い命を結核で散らした。

で、作中には『マノン・レスコー』なる小説が登場するが、この『マノン・レスコー』もまた、騎士と美女の恋愛小説である。
この作品のヒロインであるマノンもまた、最後には命を落とす。
マノンは男たちを幻惑する存在で、享楽的な女性である。この人物造形は、
享楽的に生きている『椿姫』のマルグリットにどうしても重なる部分がある。

つまり、3人の女性が、数多の男たちの間を飛び交いながら、3人の男性の愛を受けたわけだ。これらは全て、マトリョーシカのように同じ系譜の物語である。
そして、一つは創作で、一つは現実で、そうしてまた一つは、現実を下敷きに創作も包んで、書き上げた物語。
『マノン・レスコー』は1731年、『椿姫』は1848年の作品。
一世紀という時間を隔てて同じような小説が生まれた。それはまぁ、デュマ・フェス自体が明らかに下敷きにしているからだろうが、所詮は人間の感情に大きな変化はないということである。
古臭い物語だと始めに書いたけれど、それは、普遍だということである。

恋というものは、繰り返し繰り返し、毎日どこかで咲いている。
そして、それは他人から見れば取るに足りない出来事かもしれないが、恋をしている人には物語なのである。
中でも、悲恋というもの、純粋な恋というものは、ただ一度だけの特別な物語かもしれない。
私に今日は、取り立てて何かある日ではないけれども、どこかの誰かには、何よりも輝いている一瞬なのかもしれない。


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