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サーカスの景②


彼が彼女と出会ったのは、彼の会社が出入りをしていた客先だった。彼は京都から岐阜にあるその客先に通っていて、恵はそこで働いていた。小さな編プロで働いていた彼に、とある企業のPR記事媒体の仕事が舞い込んだ。広報になったばかりの恵は、何もしらない少女のようなもので、教師と学生のようなものだった。年も八つほどはなれていた。彼は結婚をしていたから、恵に興味を抱いたとしても、その思いというのは、心の中で弄ぶほどのものでしかなかった。
 恵は芸術に関心のある娘で、絵や小説を好んでいた。とりわけ舞台が好きで、とくに劇団四季が好きだと言っていた。彼は、趣味で小説も書いていたし、絵を観ることも好きだったから、恵がそう言うと、とたんに興味がわいた。
「どんな絵がお好きなんですか?」
恵は空を見てしばらく考えこむと、
「日本画が好きです。東山魁夷はご存じ?」
「知っています。京都の絵をよく描かれている大家だ。それに、みずうみと白馬の絵……。」
そう言うと、恵は両手を合わせて、何度もうなづいた。
「とてもきれいな絵でしょう。ああいう、音のない静かな絵が好きなのかもしれません。『日月四季図』はご存じ?」
「いいえ。」
「東京の御所にあります。一度だけ見たのだけれど、日も月も虹もあって、美しい金色の絵なんです。その絵に心惹かれます。ほかに、たくさんの京都の絵を描いてますから、それもあるのかもしれないわ。私は母方の実家が東山にありますの。だから、東山魁夷の描いた京都の絵が、とくに心に残るのかもしれません。」
「京都を描いた絵で、お好きな絵は?」
「ちょうど、光悦寺の光悦垣を描いた絵が好きなんです。淡い色が、とてもきれいで……。」
「光悦寺は僕の家のちかくですよ。あそこは竹藪がきれいですね。五月の青い竹も美しいけれど、秋の竹の色づきもきれいです。」
「ほんとうに。大徳寺も、高雄も。京都は竹藪や、杉の木がきれいですね。あなたの仰ったように、五月になると、緑に囲まれて。東山も緑に包まれます。」
そういう会話をしたことを、彼は古書店におかれていた『北欧紀行 古き町にて』という、東山魁夷の画集に目を留めた時にふっと思い出した。手にとってぱらぱらとめくると、日本の風景ではない、北欧の町が描かれていて、彼はそれに興味を持って、買って帰った。
 それから、彼は仕事の合間の雑談に、自分が小説を書いていると口をすべらした。
恵は興味を持って、
「どんな小説を書いていますの?」

彼ははにかむように目を細めて、
「おもしろくもない小説です。つらつらと、日記のように、思い立ったことを書いている。」

「どういうお話しなんですか?」

「自分の話です。自分が美しいと思ったものや、自分がおもしろいと思ったこと、自分がつまらないと思ったこと……。そういうことを集めて、書いているんですよ。」

「それじゃあ、それを読めば全部わかるのね。」

「そうかもしれません。でも、ほんとうに美しいものは意外と書けないもんです。」

「どうして?」

「自分の中に、そういう言葉を拾い出す知識がないからかもしれません。表現の限界かな。だから、絵描きに憧れますよ。」

「絵を描く人も、きっと同じようなことを思っていますよ。」

「絵描きは小説家に憧れるの?」

「きっとそう。言葉で表現するのは、絵とは違う、空想を描かせるでしょう。」

そう言うと、恵のほおはゆるんだ。空想を描かせるという言葉は、彼の胸に残ったが、しかし、絵描きの絵もまた、空想の言葉を物書きに書かせるとは言えなかった。
 
それからちょうど一年ほど、彼女とがっつり組んでの仕事を続けていると、彼女に関東への異動の辞令がくだった。その折りにも、彼は何も言わずにそのまま恵と別れたが、その時に、『古き町にて』を恵に渡した。恵は目を細めて、
「こんな本、知りませんでした。」
「僕も古書店で偶然見つけたんです。この時代の画家は、みんな西洋に行って、西洋の影響をうけるんですね。」
「小説家もです。みんな外国の影響をうけて、それから日本に戻るんです。」
画集をぱらぱらとめくりながら、恵は言った。恵もどこか、芸術家のように彼に思えた。
「そういえば、お好きな画家を聞いてなかったです。」
彼は少し考えると、
「古賀春江が好きです。三十代で死んだ画家。」
「名前は聞いたことあるけど、観たことあったかな。」
「『サーカスの景』という絵が好きなんです。」
恵は首をかしげた。
「古賀春江の絶筆です。神奈川の近代美術館に収められている。ほんものが見たいと思っていますが、その機会がなかなかなくて。とても静かで、美しい絵ですから、本庄さんも好きかもしれない。」
 それから数ヶ月後に、彼が出張で訪れた神奈川県立近代美術館で、恵と再会したのである。その日はちょうど曇りの日で、仕事終わりの空いた時間に、彼は美術館に入った。古賀春江の絵が展示されると、広告で見たのがきっかけだった。その広告を見て、彼は久方ぶりに、恵にメールを打った。けれど、まさかその場所で、恵と出会うとは思わず、思わず声をもらした。
「古賀春江の名前を聞いてから、いろいろ調べたんです。」
恵はそう言って、ほほえんだ。美術館は静かで、人気がなかった。
「京都の美術館だったらこうはいきません。どこも人が多いんですもの。」
「たしかに。美術や芸術が好きと言うよりも、話題が好きなんでしょうね。」
話していると、目の前に、『サーカスの景』が姿を現した。思っていたよりも小さい絵で、ほんものは、思っていたよりも静かな絵だった。
 中央より少し左手に調教師が描かれていて、虎が八匹、絵の中に描かれている。また、虎のほかに、象やキリンやアシカや鳥が描かれている。動物にあふれた絵だが、背景は青に塗りつぶされていて、虎だけがぼおっと黄色く光っている。静かな絵は、夢の中のサーカスを思わせた。
「とてもさみしい絵ですね。」
「この絵を描いたころの古賀春江は、病気でもうろうとしていて、署名を書こうとした手もふるえていたそうで、ほかの人に書いてもらったそうです。でも、絵はふるえていませんね。絵と文字は違うのかな。ふるえているのに、死がちかいのに、静かですね。」
「静かな死……。」
「古賀春江の友人だった川端康成がこの絵を持っていたんですが、この絵に関して、どうしてあんなにしいんと静かなのか、随筆の中で言っています。」
「ほんとうに静か。でもわかる気がします。サーカスってはなやかで、きらきらとしてますでしょう?私の好きなお芝居も、とてもきらきらしています。でも、舞台を観た帰りに、ふっとあの風景を思い出すと、静かな絵が浮かんでくるの。」
恵はそう言うと、絵を静かに見つめた。黒い睫は天に向いて美しい弧を描いていた。
「もともと、古賀春江はシュルレアリスムの作家ですから、この絵も、嘘の光景と言えば嘘だな。モデルはカール・ハーゲンベックの大サーカスの写真です。モノクロの写真のね。その写真もやはり静かだな。川端康成が数学的な構図と言っていますが、たしかに数学的な美しさですね。」
彼はスマートフォンをいじりながらそう言うと、その写真を見せた。恵が彼の手元をのぞき込んで、黒髪が匂った。
「ほんとう。数学みたい。でも絵の方がかわいい。」
そう言うと、歯を見せてほほえんだ。
 美術館には、いくらかの古賀春江の絵がかけられていて、『窓外の化粧』や、『野の春』、『煙火』、『花 月』などがあった。
 ひとしきり見ているうちに、ふたりの中に、古賀春江の天才が流れこむようだった。そして、彼の胸には、古賀春江の絵と、恵の匂いとが、交じるようでもあった。
 館内には、他の画家の絵もかけられていて、松本竣介の『街にて』があった。恵はその前で立ち止まり、
「怖い絵……。」
「松本竣介も夭逝の画家ですね。彼は幼い頃に、聴力をなくしていますから、聾者の芸術かもしれない。」
「聴力を……?」
彼はうなづいた。『街にて』は、白色と青色を基調に描かれているが、しかし、青色は群青よりも濃く、死の海の色のようで、そこに描かれた人間たちも、どこか人形めいて見えた。これが、松本竣介の見ている街なのだろうか。
「ゴヤの黒い絵に似ていますね。」
「ゴヤってスペインの?」
「ゴヤも病気で聴力をうしなって、晩年は黒い家に閉じこもって、十四枚も意味のわからない黒い絵を描いて、それに囲まれて暮らしましたから。そういう、耳の聞こえない人間の世界が描かれているのかもしれない。」
「耳の聞こえない世界……。」
「それが影響しているんでしょうね。十四枚の黒い絵は、全部が全部死の色に満ちている。『裸のマハ』を描いたころは、生彩のある絵だったけれども、それがひっくり返ったように、描かれた人に顔色がないようです。戦争の惨禍も、それに影響したのかな。」
彼はそう言って、もう一度『町にて』を見つめた。やはり似ているようで、人々の顔に生彩がない。
「心の色が出るんでしょうか。」
「心の色?」
恵はうなづいて、それから思いついたように、
「耳が聞こえないと、やはり自分のからだの音だけが聞こえる?」
「そうかもしれませんね。心臓の鼓動や、血の流れる音。」
骨のきしむ音も聞こえるかもしれないと思って、しかし、彼は言葉にするのをやめた。
そういう自分の音たちは、普段は自分にひびいてこないものだが、しかし、聾者には聞こえるものなのだろうか。盲人には盲人の、聾者には聾者の世界があって、それが芸術に作用するのことは、哀しいと同時に美しいとすら思えた。
 彼は、となりに立つ恵の音が聞こえるかのようだった。彼女も、毎日毎日、美しい髪やつめがのびることもあるだろうと思うと、その音が、耳にまで届くようだった。
 恵はじっとその絵に見入ると、
「絵は画家の心象風景でしょうけれど、音がないから不思議ね。絵画はみんな黙っているわ。その中でも、ほんとうに静かな絵がいくつかあるのね。」
その静かな絵たちに囲まれて、この場所に生きているのは、自分と恵だけではないかと、彼には思えた。
 美術館から出ると、日がかすかにかげっていた。春の日暮れで、少し肌ざむかった。
「今からお帰りになるの?」
「そうですね。もう新幹線に乗らないと、泊まることになりそうですから。」
「そうですね。それなら、私はここで。」
そう言って恵がほほえむと、彼は、彼女に対して清潔なものを感じた。ここで、清らかに別れることが、何よりも美しい思い出になるだろうと思えた。美術館の前で、人波はまばらで、顔はみな薄闇にまぎれてしまっていて、視線も見えなかった。
 しかし、恵の目だけはふたつともきらきらと輝いていた。その目を見ているうちに、彼に、周りが絵のように思えた。ふいに、心が高まって、彼は恵の手を取ると、そのまま抱き寄せた。恵はおどろいたようで、かたまってしまったが、しかし、何も言わなかった。恵のからだは彼が思うよりも小さくて、かすかにふるえるようだったが、抱きしめるうちに、それは次第におさまっていった。
 その夜に、恵の家で見た恵のからだも、思っていた以上に白く小さかった。花を手折るかのようにやさしくふれているうちに、だんだんと恵の目ぶたが赤らんだ。何よりも、耳たぶの花やかに赤いのに、彼は恵の純潔を見た。
 シャワーを借りてから、部屋にもどると、恵は東山魁夷の『北欧紀行 古き町にて』を開いていた。彼をみとめてほほえむと、すり寄ってきて、純粋の声で、彼の名前を呼んだ。
「一人暮らしは長いの?」
「北鎌倉に父方の実家があるの。そこに十八まで住んでいて、神戸の大学に進学したの。三宮に住んでいて。それから今度は岐阜、今度は東京。京都はほんとうに仮の宿ね。」
「それじゃあ淋しいだろう。」
「そうね、だから動物を飼おうと思ってるの。でも、犬や猫は四六時中家にいないと飼えないでしょう。小動物かなにかがいいなって思っているの。」
彼は、そう言う恵の家を見回した。白色の壁紙に、青色の小物がちりばめられている。
「青色が好きなの?」
「そう。実家のちかくに、明月院があるの。姫あじさいがとてもきれいに咲くの。青色でひと色なの。その青色を見ていたからかもしれない。」
彼はうなづいて、恵の横顔を見た。青色という言葉がこぼれる脣が、赤く美しかった。
 

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