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ベルセルクはブレードランナーだった

漫画『ベルセルク』は、今年、作者の三浦建太郎氏が急逝されたため、未完で終わった。その最新刊の41巻がクリスマスイヴに発売されたので、購入し、読んでみた。

私は1999年、中学生の頃に初めて『ベルセルク』を読んで、そこからリアルタイムで追いかけてきたが、その頃は年間2冊のペースで単行本が発売されていた。2000年代後半から一年に1冊、二年に1冊と、段々と休載が増えるにつれて、刊行ペースが落ちていった。
それは、熱量も同様である。


『ベルセルク』は復讐者の物語であり、同時に『デビルマン』の深い影響下にある、男同士のラヴ・ストーリーとも言える。それは恋愛というよりも、特別な存在である、互いにカリスマを持つ男同士の魂の衝突である。

主人公ガッツは死体の中で産声を上げて、傭兵団の中で育まれて、そして生涯の友とも言える、選ばれしカリスマと出会う。
結局は、このカリスマであるグリフィスとガッツの物語なのである。キャスカというヒロインは、何処までも彼らの間に介在する楔に過ぎない。
キャスカは、私が読み始めた1999年には既に幼児退行していて、それは永遠に続くかと思われたが、40巻において、彼女は四半世紀ぶりに正気に戻る。
41巻では、今までのような死闘が描かれることはない。静かな物語が紡がれている。そこには、キャスカの中に芽生えたガッツとの子供、その肉体を依り代として転生したグリフィスとの間の、歪な因果関係を改めて描き出している。
月夜の晩に現れる謎の少年の正体の片鱗、それはキャスカとガッツの子供でもあり、同時にグリフィスでもある。そのことが描かれて、物語は幕を閉じる。

41巻には、髑髏の騎士こと覇王ガイゼリックの過去、更には過去のゴッドハンドなどが描かれて、物語は間違いなく確信に近づいている。
然し、本当にこの先に物語はあったのだろうかとも思う。
物語は、既に終わっていたのではないか。ガッツは、死体の中で生まれて、そして再度死の宴から生還し、そして狂戦士となったが、彼の物語は、

グリフィスの最後の言葉、

それもすぐに消える 一筋の涙と共に 朝露のように

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いや、ロイ・バッティじゃないんだから。

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ロイ・バッティは死ぬ時に、

そういう思い出も、いずれは消える。雨のように 涙のように

と言って死んでいくが、グリフィスはロイ・バッティだったのかもしれない。何故ならば、ロイ・バッティは天才であり、人造の人間であり、そして、まだ4歳の子供だからである。

まだ、遊び足りない、とグリフィスは言っていた。グリフィスは転生を果たしたばかりの子供なのだ。本当には、あの月夜の少年こそが、グリフィスの本当の姿なのだ。

つまりは、ガッツは最大級の絶望を最後に告げられて、そして、最大級の愛がそこにあることを知り、物語は閉じてしまった。

そして、ガッツもまた同時に、ロイ・バッティなのである。何故ならば、『ベルセルク』に強い影響を与えた『グレートウォリーアーズ/欲望の剣』の主人公は、ルトガー・ハウアーが演じていて、ガッツさながらの傭兵だからである。

ガッツとグリフィスは、半神同士であり、この半神同士は既に、闘いではなく、話し合うことをこそ求めているのではないか。

この先の物語がどうなるのか定かではないが、然し、『ベルセルク』は『ベルセルク』としての役割を21巻の生誕祭の章で終えている。これ以上は蛇足だったのだ。

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