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瘋蝶聖

蝶狂いの息子の遊楽が高じるのにつれて屋敷の庭に温室まで与えてやったほどの息子狂いである。
以前よりも身体のかさが増した先生と向かい合うと、彼は遠くを見つめながら、あれだけ飛んでいても翅音はおとが聞こえないんだ、とそう呟いた。先生の言葉の方に目を向けると、成る程、温室のドーム状のガラスの屋根がこちらかも見えて、ひらひらと数頭の蝶が舞っている。
「何頭いるんですか?」
「数百はいるだろう。」
事も無げにそう言うが、ざっと試算してみただけで、それが言語学の一大学教授にまかなえる額ではないことが想像できた。そういう真山の考えを見透かしたのか、
「本は全て売った。」
稀覯本きこうぼんをたくさんお持ちだったでしょう。先生のコレクションは界隈随一でしたよ。」
「それも全て売ったよ。それでも膨れ上がる温室の設備に莫大な投資が必要だった。要は焼け石に水だ。如何にも、私のコレクションは随一だよ。けれども書痴でも出来ないことがあるようだ。」
「書痴だからでしょう。御金に関しては当てにできない趣味です。」
真山をそう言いながら煙草をくわえたが、すぐに先生に静止されて、火を灯さずにそれを仕舞った。
「彼には彼でたくさんのコレクションがある。見せてもらうと良い。」
「ブータンでのシンポジウムはどうでしたか?」
真山の問に、眼鏡の奥の目は何やら秘密めいた悦びを隠すかのように煌めいた後、しゃがかかったように白濁とする。
「あれも連れて行った。遠出はそろそろ嫌がる年頃だろうから、これで最期だろうね。」
先生の言葉に頷いて、真山は立ち上がると、壁一面にけられている標本を睥睨へいげいした。蝶から、蛾から、汎ゆる種を閉じ込めたノアの方舟である。それぞれがつがいで整頓されているが、異なるのは此等これらが全て死の棺桶であり、最早そこからは何も生まれ得ない、ということだけだ。真山がまだ二十歳はたちそこそこの可愛い若衆だった頃、壁には前衛絵画が並んでいるだけで、屋敷は絵の具の香りに満ちていた。今は草花の香りがそれに取って代わり、甘ったるい花々と腐った花との混成が女の帯下こしけを思わせる。
玄関を出ると庭が広がる。ドイツかフランスの庭園のようだと、若い頃はそこを駆けたものだが、先生を親父だとかあにぃだとか兄事けいじしたその青春の匂いも、今ではあの温室が一切を覆っている。先生が六つ下の山猫をめとると聞かされた夜、真山はいっその事服毒自殺を遂げようかと思い悩んだが、先生からのふみでそれには思い留まる。世間一般の仄暗ほのぐらい好奇から目をらせるための愚策だと、そう自嘲気味に識らされてから真山の希求はいよいよつのったが、写真で見せられたその山猫を白薔薇に変える魔法を先生はほどこしたようで、美しい水瓶みずがめ雄雄おおしい槍に貫かれて、山猫は先生の希望である美しい御子を産んだ。令息おとこのこだった。子はかすがいだとばかりに両親は肉体の交渉も愛情の交感も、先般のふみと異なり真山の思う以上に重ねているようだ。飯事ままごとなどとうそぶかれて、真山には面白くない。
丹精な目鼻立ちだった凛々しいアドニスも今は昔、段々と教授と、その地位で呼ばれることに相応しい世間並みの男になった。
賛美歌が聴こえている。文学などの藝術はてても、青い目の少年少女の歌う歌声、美しき娘のささやき、真白な肌の少年の吐息を思い出す音の藝術にはまだ未練があるようで、それは息子に受け継がれた。
真山は、先生は自分の魔王であるはずだったのに、それを血の繋がらない魂の弟に奪われたことに目がくらむような怒りだった。スーツの胸ポケットに入れていた銀製の缶を取り出して葡萄酒ぶどうしゅあおる。
温室の扉を指先でそっと押し開いた時、少年はその白いうなじに髪飾りをつけていた。それはゆるりとはためいて、揚羽アゲハの一種かと思ったが、白い格子が入っていて、後翅こうしあかまるい文様があった。たえなるボーイソプラノがやむと彼が振り向いた。涼しい顔立ちに乗せた長いまつげを瞬かせると、ぱっと蝶々は飛んだ。彼は静かにお辞儀をして、
「ブータンシボリアゲハです。奇麗きれいでしょう?御父様とこの夏、ブータンで。」
息子は自慢げにその獲物を見せつけてきた。
「幻の大蝶です。ヒマラヤの貴婦人と言われています。」
詩でも朗するような声でそう言うと、魂の弟はお父さんそっくりの笑顔で微笑んでみせた。ブータンシボリアゲハはいつの間にか彼の肩に乗ってはためている。
なるほど魔王がその首を欲しがるわけだ。ならばうなじを飾ったブータンシボリアゲハは彼の首を奪おうと放たれた魔蝶まちょうだろうか?
「扉を閉めてください。蝶々が逃げてしまいます。」
「自然に帰してやった方が伸び伸びと飛べるんじゃないのか。」
「そうでしょうね。蝶々遊びにハマった初めの頃はそうでした。今もそれは変わりません。可愛そうですから。でも、何頭かはしょうがないと思っています。」
「しょうがないとは?」
「捕まって、こう、心臓を潰される。そうして展翅てんしされる。それはしょうがないことです。自然のままに、野生のままに生きるのが一番美しいけれども……。」
そういう彼の足元には、かれた水に十数頭ものカラスアゲハが集まって喉を潤している。
「ブータンには何日ほど?」
「10日です。この蝶々は9日目でようやく手に入れました。もうだいぶ弱っています。」
「標本にはしないのか?」
「ブータンには入るのが難しいんです。この大蝶は、インドとの国境で見つけたんです。だから、正確にはインド産かな。密輸には当たらない。それに、幾らでも連れ込む方法はあるもんです。」
「よく見つからなかった。」
「そういうことも、御金が物を言うんだって、御父様が。」
魂の弟はその手のひらほどもあるであろう蝶々を簡単に摘むと、にこりと微笑んで見せて、幼児のようにその白い歯並を見せた。
「でもね、この子たちが本来生きている環境とは違いますから、もう駄目になるでしょうね。」
真山は胸ポケットから銀製の缶を取り出すと、それをひと口飲んで見せた。蝶狂いの少年は、熱に浮かされたように話し続けている。夢中に夢中に。今度は、台湾にいる蝶々を狙っているのだという。
真山はブータンシボリアゲハがまたそっと彼の髪に止まった時ーこの日、屋敷に来る前から考えていたことを実行してみせた。
ブータンシボリアゲハは人間のてのひらほどの大きさがある。温室に倒れている少年の首筋にはちょうどそれとよく似た文様がついていた。拇指大おやゆびだいの丸く朱い点は血の如く紅く少年の頬か口づけの跡のよう。真山は近くにいた蝶を捉えると、そのはねを撫でてから放してやり、指先についた鱗粉を口紅にそっと塗りつけてやった。唇は鮮やかな禁色きんじきになって、はてあれは国蝶のオオムラサキだな、と真山は思い当たる。
adieuアデュー、美少年。蝶々に扼殺やくさつされたのだと思いたまえよ、そう兄は弟に語りかけて、葡萄酒をあおる。


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