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長編と短編


川端康成の小説に、『掌の小説』というものがある。
新潮文庫で1,000円程度で買えるものだが、
掌編小説が100篇以上掲載されている。有名な『夏の靴』や『有難う』などが掲載されていて、掌編小説のテクニックの宝庫である。
(どうでもいいが、川端康成を見ていると菅さんを思い出す)

然し、川端は掌編、短編の名手で、長編に不向きである。

『雪国』、『千羽鶴』、『山の音』などの作品は、短編を繋ぎつなぎ書いた連作もので、最長の長編小説の『東京の人』などは新聞小説だけれども、長すぎると精彩に欠く(けれど、私は川端作品ではベスト3に好きである)。
息の長い作品をかくのが苦手なのである。

長編に向く人と、短編に向く人がいる。
発想力や美しい表現などを目標とするのならば短編の方がいいように思える。
構成力が高く、忍耐があり、通俗的な人は長編に向いている。
長編は飽きずに書く必要性があり、また、テーマを含有させる必要性も生じる。『テーマ』がなければ長編は生きてこない。
そして、長編を書けなければ小説家として大成しない。本が出せないし、本が出せないと食えないし、売れないからだ。

けれど、芸術家としては掌編や短編で問題ないと思う。『テーマ』なぞも別に必要もないと思うし、私は長編はもう読まない。命は有限なので、余程の作品以外は時間が勿体ない。

長編を拵えるためには通俗が必要で、それでは天に羽撃けない。
まぁ、それは長編を書けない人間の言い訳かもしれないが。

長編小説は10万字前後は最低必要で、原稿用紙250枚〜300枚くらいを必要とする。とにかくエネルギーと根気のいる作業で、ルーティンに耐性がある、乃至はちまちまと組み立てていくことを苦としないタイプに向いている。
例を上げたらキリがないので割愛するが、2000枚、3000枚、10000枚、100000枚と書かれたような小説も存在する。
そんなにたくさん、書くことがあるのがすごい。

村上春樹は、毎日マラソンしていて、推敲が全く苦にならない、寧ろ推敲が楽しいと言っていて、とてつもない忍耐のある人だと感じる。
一つのテーマ、一つの物語に注ぎ込むのは、小説家としての天分だろう。
私にはそのような天分はない。
私は10万字を超えるものは、指折り数えられるくらいしか書いたことがない。全部で9本である。
推敲は死ぬほど嫌いだ。何度も読むと、つまらない物語だと突きつけられて、自己嫌悪に陥る。だから私は、文章を書くのには向いていないのだ。

エンターテイメント作家にはこの長編を書き続ける職人的な力がいる。
20、30は当たり前、50〜100作品の長編を書くのは凄まじいことだ。
けれど、本来は小説家になるということはそういうことなのだろうと思う。

先程、川端康成は短編の名手だと書いたけれども、そのとおり、短編、中編を山程書いている。数は何百にも及ぶ。新潮社から出ている康成の全集は全35巻+追補2冊の計37冊だけど、恐ろしい分量である。大抵の作家は、全集だと十何冊とかあって、書き続けて出来た山である。その山の中で、わずか数冊分だけが、今も読まれている。他の作品は、余程のファン以外は手にもしないし、知りもしない。

山と書いて、その中でようやく、人様の御眼鏡に叶う作品を物に出来る可能性がある。
何れにせよ、人に読ませるためには、長編にしろ、短編にしろ、書き続けることが而して最低限度の礼節である。

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