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冬はやっぱり越前竹人形

水上勉の小説は読んだことがなくて、親しくさせて頂いている方に紹介されて初めて読んだ。
一番の有名所の『雁の寺』と『越前竹人形』である。
その二作品を読んで感じたのは、エンタメ性の高い谷崎潤一郎、というものである。

小説としての体裁がとても整っているのである。起承転結が丁寧に紡がれている。美しさなどの描写は小匙程度にまぶされていて、主軸となるテーマを一貫として置いている。

もともとミステリー作家であるから、作品の構築が抜群に上手いのであろう。ミステリ作家というものは、プロットを組む必然が生じるわけであるから、純文学を書く人間よりもよっぽどに小説家として特異な技能を持っており、少数派である。
『越前竹人形』は谷崎潤一郎が読んで感心して好評を書いていて、水上勉は大変喜んだそうだ。
『越前竹人形』は夫婦の話であるが、御伽噺のような、昔話のような淡い幻想性を帯びていて、非常に読みやすい。然しながら、そこには秀才文学の域を出ないようで、今では彼の作品のほとんどは読まれていない。

『雁の寺』は自伝的なものを素材に、ミステリー仕立ての物語を作り上げている。水上勉は10代前半の頃に京都のお寺で修行をしていたが、あまりにも辛くて脱走したのだという。そういえば、車谷長吉の『贋世捨人』において、主人公が大徳寺で修行している友人を訪ねると、お前にはここの生活は耐えられないと諭す場面がある。そこで紹介する、精進料理やお寺の1日などを細やかに美しく描写しているのが印象的だった。
水上勉は不良少年で、女が大好きだったので、そもそもが坊主に向いていない(いや、逆説的には坊主に向いている?)
然し、水上の場合は『雁の寺』の舞台となったと言われる京都の瑞春院において、住職と妻にいいように使われていたこともあって、限界に来たようである。
彼は、この作品の中で、この二人に復讐を遂げる。

水上勉の作品を私はそんなに読んでいないので、偉そうなことは言えないが、結局はミステリー作家というものは、そこに強烈な毒性がなければ後世に残りにくいのだろう。江戸川乱歩などが残るのは、その異常性と同性愛的なもの、被虐趣味に溢れているからだろう。
その点、水上勉の作品はマイルドに過ぎるのかもしれない。読んで、さらっとし過ぎていて、大衆性に過ぎるのかもしれない。

然し、彼が原作の映画『飢餓海峡』においては、井筒和幸は日本映画の凄まじい傑作と太鼓判を押していた。
彼の作品は多く映画化されている。映画化が多いのも、優れた物語の書き手に共通することかもしれない。

『越前竹人形』は冬をイメージさせる。雪深い越前の物語である。
これは、水上勉の書いた『雪国』なのである。『雪国』には恋愛はないが、今作には恋愛がある。それは、恋多きイケメンである水上勉だからこそ、大衆小説を書ける小説家だからこそ書けた要素かもしれない。

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水上勉には、昭和文学という言葉がぴったりとくる。彼の文学は、平成にも令和になじまない。あくまでも、昭和の物語である。

彼の息子の窪島誠一郎氏が館主を務める美術館、無言館に足を運んでみたいと思っている。無言館は、戦没した学生の書いた絵画などが所蔵されている。
そこには無名のまま、無念のまま夭逝し、絵だけを遺した天才の欠片が残されているという。
私達は、こういう絵をこそ観なければならないし、識らなければならないのだと思う。


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