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タルホと月⑧ 地上とは思い出ならずや

『きらきら草紙』は稲垣足穂の掌編小説である。
これも都合何回か改訂されたり、タイトルの変更があった。

足穂の作品は内容は掲載誌や掲載本が変わるに従い、度々改訂される。つまり、複数のバージョンが存在し、全集だけでは捕まらないのである(全集未収録作品もあるため、全て読んだ人間は恐らくは作者の足穂だけ)。
タイトルも同様であり、作品とは生きているもので、姿かたちを変えていく。

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さて、『きらきら草紙』に関しては、あの名曲、童謡の『トィンクルトィンクルスター』を曳く必要性がある。誰もが識っている、乃至は口に出したことのあるであろう、あのフレーズ、きらきらひかる おそらのほしよである。これが、英語だと、Twinkle, Twinkle, Little Starである。

トゥインクル(或いはツィンクル)とは星が瞬くことであり、これを足穂は謡曲の『天鼓』と結びつけている。『天鼓』に関しては、『E氏との一夕』の記事に書かせて頂いたが、足穂が愛してやまない、永年の美少年像が描かれた謡曲である。

足穂は、例えば松尾芭蕉、西行のような、或いは川端康成や小林秀雄などの、日本の侘び寂び関連の美しさは日本の美しさではないと語っていて、彼の言う日本の美しさは、『天守閣の上で水干、立烏帽子をつけて太刀をはいた美少年の幸若舞、そのようなものこそが日本の美しさ』だと言っている。川端の言う、侘び寂びの世界とかが一番そういったものを駄目にすると、ここでもディスっている……。
要は、枯れた美というのは、非常に感傷的で、わかりやすいので、美しさだと履き違えられてしまったと言いたいのである(私は好きだが)。

『きらきら草紙』は少年足穂が憧れて、周りからも「お兄さま」と呼ばれていた少年紳士の話である。足穂の憧れたこの少年紳士の描写がとても美しい。これは一種のBLであるが、ボーイズラブではあるが、性愛はない。男の子は、皆フェイバリットの男の子の友達乃至は知り合いを見つけるものだ。それは、僅かだけの、少年だけが持てる秘密の宝物である。

この作品の書き直のようなものが、『星は夜に拱くの記』であろうか。こちらは年下の少年との親しくなった折のエピソードが綴られるが、この作品の結びはまさに『天鼓』を始めとする、日本の天上界の作品の名称が書かれる。『千手と三河』とか、『呪師小院』とか、つまりは、稚児ものなわけだが、これらの、きらきらひかるお空のほしというものは、足穂にとっては日本の天上界であり、美しい稚児の舞のようなものである。それが、彼の青春において、いくらも出逢った来た美しい少年たちと重なる。

『きらきら草紙』も『星は北に拱くの記』も、どちらも足穂的稚児物語である。

さて、『天鼓』において、足穂はこのフレーズをよく持ち出してくる。
それは、『人間の水は南。星は北にたんだくくの』と言う言葉である。
詩人の加藤郁乎は、このフレーズに関して、直接足穂に尋ねる。人間の水とは何か?と。
そして、そう尋ねられた足穂は、自分もこの文句の上に不思議な感覚を憶えていたと語った。「人間世界の凡ての河流は東方に注ぎ、満天の星星は北極星の周りを旋回している」という、中国の古詩に由来していると語っていて、即ち、地上と言うほどの意味だと、そう言っている。
東を南に変えて、北の対象にさせたのだろうと、足穂は言っていた。
こちらは、足穂は自身の絵にも描いているので、おそらくはこの『人間の水は南。星は北にたんだくくの』というのは、彼に美少年と天体との不思議な融和を感じさせる魔詩のようなものなのだろう

烏鵲かささぎの橋のもとに。
紅葉を敷き。
二星の館の前に風冷やかに夜もふけて。
夜半楽にも早なりぬ。
人間の水は南。
星は北にたんだくの。
天の海面雲の波。
立ちそうや呂水の堤の。
月にうそむき水にたわむれ、波をうがち。
袖を返すや。
夜遊の舞楽も時去りて。
五更の一点鐘も鳴り。
鳥は八声のほのぼのと。
夜も明け白む時の鼓。
数は六つの巷の声に。
また打ち寄りて現か夢か。
またうち寄りて現か夢、幻とこそなりにけれ。


そして、加藤郁乎は、足穂の作品の中に登場する言葉、『地上とは思い出ならずや』という言葉に大変感動している。
地上とは、思い出である。
そう思う時、ダダ詩人の高橋新吉が足穂に語ったエピソード、所謂『物自爾』的な感覚を思い出さずにはいられない。
つまり、未来と過去に糸を渡すと、今、自分は中央にいるのである。それは、数秒前も、数日後も、数十年先も、中央にいるのである。いつだって、自分は時の中心にいるこの不思議。その不思議は、然し、思い出となる。中心にいる自分が、何時しか思い出になっている。私達は、思い出を生きていて、この地上というのは、過去も、未来も、いつかには至る、思い出ならずやなのである。

そして、天体。天体は、何千光年という遥か遠方からの瞬きを届けているが、その光の先は既に燃え尽きているかもしれない。過去が毎夜、きらきらひかるのである。

今、私はキーボードを打っているが、すぐに新しい私になって、今キーボードを打つ私は思い出になっている。
地上とは思い出である。自分が死ぬ時に、恐らくは一瞬で終わったと思うことだろう。どのような長い時間も、すぐに思い出になる。
思い出でしかないのであれば、何を怖がることがあるだろうかと、加藤郁乎は言っていた。

稲垣足穂は加藤郁乎のことをこう述べている。

落しざし 写楽くずれのよい男

これもまた、日本の美しさである。


次回は私の大好きな、『カフェの開く途端に月が昇った』について書く。(予定)。『北落師門』はその次かその次で……。

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