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小説を書くという難事業

映画は総合芸術と言われる。様々な要素が内包された複数の次元を有した藝術である。そして、複数の人間が制作に関与する。
たまさか、1人で全てを拵えてしまうツワモノもいるが、基本的には共同作業である。
強烈なカリスマ性、独自性を持った監督の場合、それは作り手の思想を反映した作品になることも多い。

反対に、小説は基本的には1人の作業である。プロの小説家ならば編集者が介在したり、複数人のスタッフを抱えて執筆する人もいるだろうが、基本的には1人である。
小説は自由であると同時に荒野であり、この開拓作業はなかなか大変なものである。荒れ地をどこまで舗装するか、どのようなものを建てるか、自然とどこまで共生した場所にするのか……。
それらは全て開拓者の手に委ねられているが、文学というものはある種の自在さを獲得し、自分の庭であることは間違いないが、商業、エンターテイメントというものは、その逆で、御客様をおもてなしする必要性がある。

そのために、レストランやホテル、カフェなど、慰安や休息所を設けて、かつ映画館や劇場、サーカス団まで招集しなければならない。商業小説には主観ではなく客観が必要になる。
それは、映画、漫画、アニメーション、演劇、汎ゆるお金儲けの、大多数の人が楽しむためのものには必要な視点である。
この話は筋が通っていない、伏線が回収されていない、エモーショナルが伝わっていない、テーマが見えてこない、キャラクターが立っていない、代理恋愛としての男女の感情の機微がない、などなど、様々な欠点をたいらにして、凸凹道を舗装する必要性があり、客観性を伴った語り手はそれらの問題点を巧く掬い取り解決策を見いだせるが、やはり1人では限界がある。

主観で面白いか、よりも、客観的に見て瑕疵がないか、あったとしても面白いか、大多数が理解するか。ブランドを伴えば(それは賞であったり、売上であったり、様々なブランド)、ある程度の自由は担保されるが、例えばこれは映画だが、細田守氏は、完全に細田守というブランドを確立したが、『サマーウォーズ』にせよ、『バケモノの子』にせよ、『竜とそばかすの姫』にせよ、その全てが今までの類型で制作されており、過去の成功体験に裏打ちされた、マーケティングされた世界であるが(近作の脚本は監督本人のため、脚本家が別にいればより良い作品になると思われる)、デジャ・ヴュの感は拭えない。
反対に、『未来のミライ』のようにコケた作品こそが、細田監督の本来的に興味のある(それは『バケモノの子』にも通じるが)世界なのだろうが、これはスポンサーが許さないのだろう。

面白いことに、大抵の才覚のある人はマーケティング的執筆乃至は作劇での成功ではない、主観による作劇の成功を収めるのだが、マーケットが拡大していくにつれてそれをスポイルする様々な要因が群がり雁字搦めとなった結果、没個性化著しいつまらない作品になっていく。漫画であれば、長期連載の弊害などもそれに当たるだろう。つまりは、成功体験の反復と水増しである。

人が集うと不可能が可能になるが、そこから溢れていくものも見過ごしてはならない。私が思うには、エンターテイメント乃至は商業小説というものは、一番お手軽であり、同時にそれを作るためには忍耐を必要とする相反する性格を有している。つまり、努力が必要になる。
それは、たった一文の傑作や、わずかの数ページのために書かれた藝術とは異なり、異文化への介入に他ならないからである。異文化とは他者であり、目移りしやすい多くの感情である。
これらを惹き付けるフォーマットはある程度確立されてはいるが、それが自分の個性と合致しているかは難しいところである。
小説家として立つためには、読者という異文化の存在が欠かせないが、それらと共生していくためには、自分を曲げる、他者の意見に耳を傾ける必要性があり、それを元に開拓をするには、大変な調整力、忍耐、時間を要する。エンターテイメント小説を書くというのは、コツコツ出来るかどうかである。執筆を日常へと浸透させ、神聖視しない職人の如きメンタルが必要であり、過度な傑作を求めないことでもある。まずは仕事であり、お銭である。

然し、そもそも小説というものは塔の建てる如しの難事業である。誰もが長編小説を書けるわけではない。原稿用紙1枚埋めるのにも難儀する人は山のようにいるのだ。
長編小説はそれを、何千枚と積み重ねて、点検し、直し、点検し、直し、点検し、という推敲というマゾヒズムを楽しめる人間だけが可能という、孤独の極北に存在している。
小説を書ける人は、オナニストであり、マゾヒストであり、同時に、ナルシストである。
然し、売れる小説を書ける人は、これにポピュリストが付随する。それだけではなく、マゾヒストとポピュリストを入れ替えたトライアングルでも、この方程式は成立する。
然し、悲しいかな、多くの人がこのトライアングルさんかくけい乃至はスクエアしかくけいではなく、ナルシスト兼ポピュリストだけであり、その2点だけでは線でしかないため形を成すこと無く、物語は世界に羽ばたくことはない。

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