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両性具有殺人事件 ①

ふたのなりひら


女がたの初として、むかし男の舞の袖
おんなかと見えて男となりけり
さながらになりひらめける其ふぜい
 
 在原業平の墓所は京都洛北の地、十輪寺にあって、ここは業平寺とも呼ばれており、業平が晩年を過ごした場所だと言われている。この古刹は、山に分け入った場所にぽつんと建っていて、そこは春にだけ多くの観光客が訪れる。それというのも、寺内に生えている一本の枝垂れ桜、巨大な大輪が花を咲かすと、山並みは途端に色彩を帯びて、寺院そのものも化粧をしたかのように色気を纏い、彼等をいざなう、そんな理由からである。
創建は嘉祥三年(八五〇年)というから、既に十二世紀も昔の話である。その桜はなりひら桜と呼ばれて親しまれているけれども、業平が愛でたものでは当然ない。この桜は三方普感さんぽうふかんの庭という庭園に生えていて、これは寺院内を貫く高廊下を筆頭に、茶室、業平御殿と、三方から眺めることの出来る庭であり、普感とは、仏の万遍しているこの大宇宙を感じるという意味合いであると、寺の案内板にある。この文言には、九条武子氏の『聖夜』に通じるものがある。「ガンジス川の真砂まさごより あまたおわする仏たち 夜昼常に守らすと 聞くになごめるわが心」。
この庭の中央に、なりひら桜が佇んいるわけだ。高廊下から見た景色は雲海であり、まず、これは天上界であるとの意だという。茶室は小塩山(これは、在原業平がこの地において、塩焼きを楽しんだことから来ている地名である)、すなわち、この十輪寺が置かれた寺であり、これは現実の世界、そして、業平御殿は海底であり、これは極楽浄土を指すのだという。なるほど、高廊下、茶室、業平御殿はそれぞれに、高低差があり、高廊下に立つと、山界にいるようである。元々が高い場所にあるのだから、それも尚の事かもしれない。高廊下には、横になって手枕をして眺めてみると、また世界が異なるように視えるから、是非ともそのようにしてほしいと案内のパンフレットに書かれていたから、寝転んで手枕をしてみる。すると、妙な眠気が来たものだが、途端に猫の鳴き声が聞こえて、現実に引き戻される。起き上がり、膝をついたまま、在原業平が愛したという桜を眺めていると、稀代の色男だったというひとに関して思いが馳せられる。
この、数多の高貴な婦人と恋を重ねてきたという貴公子に関しては、狂歌や若衆歌舞伎に関して、その題材に、彼をもじった「ふたなりひら」という言葉が度々登場している。「女かと見れば男の万之介ふたなりひらのこれぞ面影」とは半井塚卜養なからいぼくようの狂歌であるが、業平の美男子ぶり、つまりは若衆歌舞伎の、女であって女ではない、美しい女のような男としての姿を在原業平とかけている。若衆歌舞伎は、女歌舞伎がお上により禁止された後の、前髪の美少年、つまりは、「お小姓の命は長うて三年」の、見目麗しい美少年が、まだ変声前のボーイソプラノを持って演じるものである。出雲阿国から始まる女歌舞伎は潰えて、若衆歌舞伎も潰えて、遂には野郎歌舞伎になるわけだが、若衆の神聖さ、それは女であって女ではない、男であるが、女である、そんなあべこべな僅かな時間だけ発光するその聖美こそが、時の権力者には何よりもの魅力だったのであろう。
ふたなりひらの語源の一つは在原業平であるけれども、もうひとつはふなたり、つまりは両性具有である。ペニスもあって、ヴァギナもある、というよりも、そのどちらもない、という方が正しいのかもしれない。性から解き放たれた存在でもある、ある種、神憑り的なものであって、現実には人間にそのような形はないけれども、生物、例えば鶏や昆虫には雌雄同体なる異常種が存在している。この異常は、面白いもので例えば蝶々であるのならば、まさに雌雄同体の名にふさわしく、身体が真半分に別れて雄、雌と異なっている。ちょうど、雌と雄の身体を鋏で真っ二つに引き裂き、夫々それぞれを貼り付けた格好である。この、子供の工作のように哀れな生き物は、自然界では最早自分の生命を残す術は存在していない。然し、人間における両性具有神話は、この組み合わせの模造品ではない。これは、どこぞのクレタ島の悪魔、ラビリントスに潜む雄牛と人間の混成のミノタウルスの如きさかしまでしかない。
それぞれが混じり合っていて、男でもあり女でもある、つまりは少年少女、もっと言えば性差が顕われる直前の美少年、美少女であることは必須条件であって、それが一番に両性具有、つまりはヘルマロディトスの同胞はらからと言えるのであるが、然し、それもまた、ただ見立てただけの話である。雌雄同体の蝶々とは異なって人間神話の両性具有者に等しいのは、自然界ではお月さましか存在し得ないと以前本で目にしたが、たしかにお月さまは、日本では女として扱われて、独逸では男の名を持つのだという。国によって、月は男とも女ともとれる。見るものによって、性別を変えるのは、あの球形こそが両性具有への近道であるからかもしれない。そして、あの寒々しい、地球から三十八万キロ離れた月は、日毎に姿を変えて、ご機嫌を変えている。月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身ひとつはもとの身にして、と在原業平は月を詠んでいるが、彼は終ぞ自分自身が月であることに気づけなかったのではあるまいか。


以上、お粗末様でございました。
これより少年少女が主人公の短い物語を始めさせて頂きますので、こちらの小咄は頭の片隅に置き置いてくださいましたら幸いでございます。

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