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美は乱調にあり、の段

最近買った本たち。

まずは瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』。

伊藤野枝と大杉栄の伝記小説。文庫で目についたから買ってヨムヨム。
大杉栄や伊藤野枝、というよりも、伊藤野枝の前の旦那の辻潤絡みで読みたかったので購入。
続編の『諧調は偽りなり』は置いてなかったので、購入は『乱調』の内容次第。

今年の2月頃、村山由佳の伊藤野枝の映画が公開されていた。


然し、『美は乱調にあり』で、伊藤野枝の詩を才能無し!と一蹴していた瀬戸内寂聴、私には、詩の良し悪しはそこまでわからないが、まぁ、かなりきついなぁ、と笑うしかない。

で、春日太一の『ヒット映画の裏に職人あり!』。

これは映画の裏方、様々なお仕事、それは宣伝であったり、馬であったり、キャスティングであったり、かつらであったり、多岐に渡るのだが、その職人たちへのインタビュー本。新書なので3時間くらいで読める。速い人はもっと速いのだろうが、私は、基本的に、本を読む時、他のことを考えたりしながら読むので、めちゃんこ遅いのである。

で、他には福永武彦の『夢見る少年の昼と夜』。福永武彦の短篇集。福永武彦の短篇はあまり読んでいないので短篇集もさらっとくかと。

で、大杉栄じゃないけれど、美は乱調にあり、というと、福永武彦の小説って諧調だよな、と思う。あえての乱調はあるかもしれないけれど、すごく明晰に文章を綴るじゃない。

YASUNARIとかは乱調だと思うんだよね。YASUNARIは基本的に長篇はニガテで、短篇を数珠つなぎにして、駅伝手法で長篇に見せかける名手で、日本語のつらつらとした表現がグンバツに巧いから何か騙されちゃうけど、実際作品の構成はめちゃくちゃだ。その時の気分、であったり、時間、であるものを上手く掬い取り美的に書くことにものすごく長けてる。
 
美は乱調にあり。乱れることは難しい。

特に、人に見せる文章、読ませる文章は乱れることを良しとしないし、天爾遠波はもちろん、何を伝えたいのか、きちんと伝わるのか、などを考えなくちゃいけない。まぁ、そんな風に謙る阿る忖度文章はカスでしかないが、どの時代もわかりやすく読みやすいことには一定以上の支持がある。

私はそのことが決していいことだとは思えないけれども、然し、最近はよりそれが顕著で、特に、コスパだのタイパだので、経過よりも結論を求める、下手したら、タイトルで物語の内容を説明する、そうなると、中身を読む意味が逆に無くなるのでは?とは思うけれども、然し、それで売れるのであればもう何も言うまい。
何せ、まずは注目を浴びなければならない。本は腐る程あるわけで、その中で自分の書いたものを読んでもらうのは、まぁ、至難の業だ。ここが落とし穴で、読んでもらうのが目的、というのは少し寂しい。目的は良いものを書くこと、ではなかったか。

さて、映画や、漫画もそうで、非常にクレバーに作られた、ビジネスライクな作品は諧調寄りだが、然し、これは薄味、だんだんと職人的世界に入っていく。
ここで言う職人は技を極めている、というよりも、熟れた程度、という方が近しいだろう。良くは出来ているけれども、面白くない。心に触れないのである。

私の好きな車谷長吉も諧調寄りだが、内容は乱調である。基本的には、人の嫌がる話、人が触れようとしない話題、それで一本、けれども、文章は見事なリズム&テンポで貫かれている。

この文章の持つハーモニー、音楽性、それらは天分であって、フェイスと同様、生まれついての素養が大きいように思う。なので、文章力は才能9割、努力1割であって、如何に努力したところとて、素質がない人には綺麗な文章はかけても乱調文学に届かないのではないか。

で、諧調男車谷長吉も、妻の高橋順子氏が口にした言葉をその場で即座に添削、文章が活きる。文章の耳目がいい人は、書かれた時、読まれて音になった時、そのどちらであっても瞬時に良いものを選択したり、添削することが可能で、こういう感覚的なものは、覚えようとも覚えられるものではない。


西村賢太も破天荒と見せかけて、めちゃくちゃ諧調の人(諧調の人ってなんだ?)で、とてつもなく整理整頓されていて読みやすいことこの上のない文章を書く。随筆は少し悪文になるが、けれども、淀みないリズムの文章をこうも丁寧に書ける才能は凄いと思う。それが、彼の露悪的な題材と相反しているようで不思議だ。確か、一度書いた文章を口に出して読み返すことをしていたはずだ。谷崎潤一郎も『文章読本』でそのようなことを言っていたが、文章を書くにあたって、口に出して読むことは重要であり、そうすることで、文章の流れ、その生命感、ハーモニーが身体に染み入って、その作品の文体が産まれる。
それが極まってからの乱調であり、まずは諧調、ハーモニーを重視することが肝要である。

大江健三郎とか、中上健次とか、ああいう、読みにくい読みにくい小説は、ここを突破して乱調に落とし込んでいる。それは乱調とはいえ、ひとつのリズムを形作っているのだが、ここまでいけるのが天才であり、乱調は読み手にも相応の目利きぶりを要求してくる。つまりは、これは悪文だな、と思えても、その実読み手側のリテラシー不足のため、そのような文体を食べたことがないため、拒否反応を示している、ただそれだけの話しである。

文章的諧調、文章的乱調、そのどちらが優れているかは作品そのもの、ひいては作家そのものの資質の話であって、乱調は『はじめの一歩』の言うところの到達者の技であり、やはり、諧調なものを目指すのが一番かもしれない。
ピカソは、普通に描いたらめちゃめちゃ上手い、という、20億回くらい世界中で言われているあのフレーズ、結句、表現を追い求めると、余人の計り知れないものに惹かれていくのであり、人に伝わるように、等という、そういうのは、レジュメや報告書の話であって、伝達を主とした文章では重要である、ということだけである。

さて、まぁ、とにかく、また本が増えたので、読まなければならないし、どうやら、車谷長吉の新刊、も出ており、然し、これは、もう、全集に収録されたものなのか否か、と、言うのも、車谷長吉の全集は全3巻で、天金の、美しい全集なのだが、それの4冊目、これは彼の死後に発売されることになっていて、この新刊と同じ版元であるから、これが、ある種、全集の4冊目に当たるのか?
癲狂院日常、癲狂院、というのは、まぁ、精神病院のことであり、まぁ、そもそも、地球そのものが、精神病院みたいなもので、もっと、ちょうきっつぁんの本は読まれるべきだ。
で、奥方の、高橋順子氏、彼女の本もまた同時発売、だが、私はこれを識らず、まぁ、2冊変えば一葉様が1枚飛んで、だから、ここは梅子さんにお任せしよう。


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