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物語に感動しているわけじゃない


『ベルセルク』が41巻にて未完になったが、当該巻には最終ページに、この先をどうするのかスタッフと編集部は悩んでいる的なことが書かれていた。

つまりは、『ベルセルク』という作品をスタジオ我画が引き継いで描いていく、そのようなプランが選択肢の一つにあるということだろうか。

なるほど、プロットが作者からスタッフに渡されているのであれば、それは可能であろうし、ファンでも喜ぶ層はいるだろう。
然し、それは既に『ベルセルク』ではない。いや、私からすれば、既に22巻、剣の丘での闘い以降、既に『ベルセルク』は『ベルセルク』でなかった。23巻以降、魔法の色が濃くなり始め、幻造世界ファンタジアへと物語が移っていってから、私はこの作品をさほど面白いものと思えなくなっていた。
無論、他の漫画と比べれば、遥かに楽しく読ませて頂いていたのだが、私には、23巻以降の物語というのは、本当にはなかったツギハギに思えてならない。
『ベルセルク』は、明らかに『デビルマン』の影響下に置かれているわけで、つまりは不動明と飛鳥了の血脈がガッツとグリフィスにも流れているわけだが、それならば、やはり最終的には大虐殺の末の天使の軍勢が迫るエンディング、二人の物語に収斂していく必要性があるが、その兆しは一向に見えなかった。

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23巻以降で良いと思えたのは、アーヴァイン(これもデビルマンだ)とガニシュカ大帝の心意気のみであって、23巻以降、20冊近く描き続けて、絵の密度は濃くなるにつれて、内容は薄く引き延ばされてしまっている。
それまで以前の物語の濃厚さは霧散して、ただただ惰性で読まされてしまっている。

41巻以降、これ以降の物語に、どのような価値があるのか。
既に、『ベルセルク』という物語は生誕祭の章までに美事に描き切られている。二人の男が出会い、決別し、再び出会う。そして、41巻の最終話も、その延長線である。

20冊経って、何があったのか。

人は、物語に感動するわけではない。人は、物語の語られ方に感動するのである。
私は間違いなく、22巻までの物語には夢中になって、本当にのめり込むように読んだ。
それは、三浦建太郎氏の物語る手腕に魅せられていたからだ。
例えば、鷹の団を失い、慟哭しながら走るガッツと仲間たちの思い出のカットバック。例えば、カルト教団の巣の中、ドラゴン殺しでキャスカを守った再会の瞬間、あのような演出こそが、漫画の真髄であり、物語にはその本質は潜んでいない。

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冨樫義博氏は、漫画家になりたいのならば絵を描いている暇はない、と言っていたが、これはプロットだけではない、演出の妙味こそが、漫画を漫画足らしめている最大の理由だからだ。
然し、私個人としては、22巻以降、本当には語る物語は、もう終わっていたのではないかと思える。妖精島への旅路は、作者の迷いの心に見えた。

『ベルセルク』の完結までのストーリーは、結局は誰が語るかが重要であり、その最大の語り手はもういないのだ。
イエズス・キリストの言葉を語る伝道師には、彼の言葉の幾分もの真実が失われている。
紙芝居屋のおじさんの老練な言葉巧みさに、子供は引き込まれていくのだ。
アニメーションのオリジナル回、原作者が原案のノベライズ、どれもが紛い物で、たまさか面白いものがあっても、それはその書き手作り手が才能豊かなレアケースであったということであって、やはり、真の面白さは、その人の手振り、口ぶり、即ち、個性から生まれていて、それが人を魅了する。

同じ物語でも、語る人で物語はまるで変わってしまう。
物語に感動しているわけではない。物語など、所詮は全て同じである。
然し、それは語り手により、無限の煌めきを放つ。それができる者が天才である。
私達は、天才を一人、喪ったのである。

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