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火だるまになること

今年観たい映画の1本に『火だるま槐多よ』がある。

槐多とは、22歳で亡くなった夭逝の画家であり詩人の村山槐多むらやまかいたのことである。


村山槐多、といえば、西村賢太が好きで、『やまいだれの歌』は村山槐多の絵が表紙に使われている。

村山槐多の絵は、たまに『なんでも鑑定団』などで度々ニセモノが登場しているが、22歳で亡くなった、とういうことは作品の絶対数が少ないわけで、価格も跳ね上がる。生きている画家はまだ絵を描ける、死んでしまえば二度とかけない、若い頃、才能の息吹をほとばしらせて、必死に槐多、いや、描いた絵というものは、それこそ価値の二乗三乗なわけである。

まぁ、この映画は、そんな槐多に魅せられた男の話のようである。


予告編を観る。こういう変な映画、低予算映画には必ず佐野史郎がいる。
これほどまでに頼りになる男はいない。

そして、映像の感覚は寺山修司の『田園に死す』や『書を捨てよ町へ出よう』のようだ。

私は寺山修司の映画は苦手だ。好きな人は好きだろう。


さて、この映画はアヴァンギャルティな作品のようだ。ある意味、園子温的ともいえる。寺山修司から園子温への系譜は完全に途絶えてしまった。

園子温は2008年の『愛のむきだし』からウルトラにブレイクして、『冷たい熱帯魚』、『恋の罪』、『ヒミズ』、『地獄でなぜ悪い』あたりは超人気映画監督だった。

園子温とはわかりやすい寺山修司なのだろうか。

園子温は00年代に世間的にブレイクしたが、作風は80年代〜90年代の匂いが濃厚に漂う。シコシコと自主映画を作ったり、東京ガガガを主催していたころだ。

私は、『愛のむきだし』は京都みなみ会館で観たのだった。4時間の超スペクタルとかで、まぁサブカルとか映画好きには大変に話題になっていた。
2006年の『紀子の食卓』などは、『愛のむきだし』のプロトタイプみたいな感じで、とても似通っていた作品だった。

『自殺サークル』や『HAZARD』など、明らかに他の監督とは違う異質な作品が多かったが、それらの積み重ねが、だんだんと、だんだんと、遂には『愛のむきだし』で爆発したように思える。

『自転車吐息』などの原点的な作品から2012年に完成された『BAD FILM』など、アナーキーかつスパンキー、かつアバンギャルドな作風は今でもやはり完全なる自我を放っており、他の作家とは一線を画しているが、やはりそこには詩人である彼が、映像詩ではない、詩そのもの、言葉そのものを見える形で作品に浮かび上がらせているのが、特に印象深いところだ。

これら、他社の言葉、自らの言葉を独自のスタイルで映像に織り交ぜていく、その感覚。

園子温の映画は語られる場所を失ってしまった。
そういう映画、そういう作品というのは世の中には数多ある。

園子温の映画は間違いなく奇作であり怪作であり、そして名作もあった。

然し、火だるまになって、それらの作品も価値が炭と化してしまった。

然し、世の中には再評価、という機運が必ず存在しており、恐らく2060年代とか70年代になると、作品の力が作者の来歴が磁場となり、また評価される時が訪れるのだろう。

作品に罪はない、などという話をしたい訳では無い。
つまり、意識せずとも作品は年月を経るとともに漂白されるということが言いたいのだ。何が漂白されるか、というと、作品の持つ生々しい感覚である。作品だけが野晒に残る。そして、作者の伝説や記録だけが漂うのである。
神話の時代は残酷と罪の坩堝だったのだろうから。








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