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『怒りのデスロード』のファンディスクとしてなら。『フュリオサ』

『マッドマックス:フュリオサ』を鑑賞。
TOHOシネマズ二条のIMAXにて。

『マッドマックス』と、いえば、今作でシリーズ5作目、私はやはり、デスロード>1>2>3の順番で好きなわけだが、今作はまぁ、デスロード>1>フュリオサ>2>3の順番になった。

デスロードの前日譚、まぁ、所謂、プリクエルというやつである。
前作は2015年に公開されて、続編の話はすぐに立ち上がっていて、5としてウェイストランド、を撮る、みたいな話があったが、紆余曲折、結句、フュリオサになった。

今回の上映時間は148分である。長い。長過ぎる。デスロードは120分。今回は28分も長いわけだが、前作はやはりある種の伝説、神話、いや、詩である。映像詩だ。

前作も、MAD、と言いながらも、実に実に巧みに、端正に撮られた映画だった。今作はよりそれが顕著である。まぁ、MADなのは世界観であり、作り手たちはクレバー極まりないのだ。
然し、前作は、あの、荒廃した2、3の世界観をより地獄のように描いて、冒頭から襟を掴んでそこにぶち込むような破壊力があった。あれは奇蹟的なタイミングで産まれた傑作である。
今作は、観客たちは予め、あのMADな世界を識っているわけで、もっと刺激欲しいよぉ、というジャンキーになっているため、そんじゃそこらの狂気では驚かない。
なので、今作は、もう既にあの味に慣れている常連を相手にした作品、であるため、アクセル全開、というよりも、あの世界における業や魂の行方(ポール・シュレイダーのではなく)などを問う、テーマ性によりフォーカスした作品である。

今作は、前作の主人公とも言えるフュリオサの、まぁ、過去編、というやつであり、様々な出来事がデスロードに繋がっていくが、つまりは、デスロードというカタルシスに繋がるための溜の段階であり、今作単体ではカタルシスは薄いのだ。どうしたって、デスロード、という親、まぁ、プリクエルだから親はフュリオサになるわけだが、それがあるせいで、今作単体でのカタルシスの成就を望めないのである。

今作では敵役として、恐らくシリーズ中最高のカス、とも言える、クリス・ヘムズワース演じるディメンタス将軍が登場するが、まぁ、大量のならず者たちを従えるイカれた男である。
こいつの仲間に拉致されたフュリオサが、彼女を助けるために来た母親を殺されて、紆余曲折あり、復讐を遂げるまでの物語である。
今作は、このディメンタスが全てを持っていくキャラクターであり、美味しく、またムカつくキャラクターである。

然し、もう一人、ジャックというキャラクターが登場する。このジャックは中盤に登場するキャラクターで、辛い目にあい続けるフュリオサの唯一の理解者であり、まぁ、ホドロフスキー的に言えば、魂の戦士、なわけだが、彼が非常に良いのだ。無骨で無口な男だが、確かな実力があり冷静で優しい好漢である。ジャックはマックス不在の作中における(途中で1シーン登場するが)、マックス的な役割の人物である。

メル・ギブソンマックスと服装近いよね。

私は、最早フュリオサはどうでもいいので、ジャックの活躍を見たいと思ったね。ジャックでシリーズ6作目を作ってもいいくらいである。
まぁ、哀しい最後を迎えるのだが……。ジャック。フュリオサはこの後、また魂の戦士であるマックスに出会うわけだが、マックスはトラウマ持ちで完全にジャンキー的ヤバさ、壊れかけているキャラクターだが、ジャックは普通に冷静で、まだメル・ギブソン時代の初期マックスに近いのではないか?
こういう、MADな世界に、まともなキャラクターは嬉しいものだ。まぁ、確かに黙示録的世界ではあるが、やっぱりまともな感性、性格の人々も多いのだと思いたい。

暴力が幅を利かす世界、そこで起きる戦争、闘争……。それらは描かれるが描かれない。あまりにも散漫になるからか、復讐という縦糸を大きく逸脱することはない。

然し、けれども、やはり、もう我々はジャンキーであり、永遠と地獄のドライヴとそこから訪れるカタルシスをこそ求めてしまうのである。

北米では興行収入は悪いようで、続編はかなり難しいだろうが、まぁ、この規模で、もう一度MADな世界を作って頂けたのだから、文句は言うまい。これは既にファンディスクなのであるから。

今作、アニャ・テイラー=ジョイの演技は良かったが、然し、シャーリーズ・セロンがいかに素晴らしいのかを再確認することにもなった。シャーリーズ・セロンのフュリオサは神々しさがある。セロンとハーディー、あのコンビは最高である。
デスロードには、花嫁5人にフュリオサ、水を飲むハーディマックス、という、あまりにも美しい詩的な映像もあった。今作はそれがない。

セロンのフュリオサの醸し出す空気、そして、時々ジョージ・ミラーが語るフュリオサの過去のテキスト、それだけで、観客の中に美しい狂気の幻想は産まれる、人間の想像力の豊かさ。
神話として、詩として産まれたものの神聖が、図らずも削がれてしまったかもしれない。



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