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ブルガリア国営航空工廟「DAR」製の飛行機たち(全機体概説)

 こちらの記事は、ブルガリア国営航空工廟「DAR」で設計・製造された機体のリストです。DAR工廟初期のコピー生産機である「U-1」および「DAR-2」についても掲載しています。

1938年にDARで設計された軽爆/偵察機「DAR-10」(1942年撮影・パブリックドメイン)

DAR U-1

初等練習機
ブルガリア語: ДАР У-1
製造: DAR ボジュリシュテ工廟 (1926)

 
1925年よりドイツ・D.W.C.社のC-Va型機(1916年初飛行の偵察機。第一次大戦においてドイツ・ブルガリアが使用し、戦後もポーランド、北欧、バルト三国などで使用。)をコピー生産した全木製の複座・複葉機で、ブルガリアにおいて初めて工場での量産が行われた航空機である。”U-1”の”U”は、1925年に事故死したブルガリア人飛行士イワン・ウズノフ(Ivan Uzunov)の名からとられている。
本機のエンジンは、第一次大戦中に取得後、秘匿されヌイイ条約による破壊から逃れていたものを使用している。 機首および後方銃座にそれぞれ7.92mm機銃を搭載した本家D.W.C. C-Va機とは異なり、武装は施されていなかったが、改修による増設を考慮した設計となっていた。
 本機の初飛行は1926年11月である。全7機が製造され、パイロット養成のための初等訓練機として用いられた。

DAR-2

初等練習機
ブルガリア語:ДАР-2
製造:DAR ボジュリシュテ工廟 (1926-1927)

 全木製の複座・複葉機。U-1と同じくドイツ機をコピーしたもので、設計はアルバトロス 社のC-III型機(1915年初飛行)とまったく同一である。
 1926年から27年にかけて全12機が製造され、パイロット養成のための初等訓練機として使用されたが、1930年には退役した。

DAR-1/1A

初等練習機
ブルガリア語:ДАР-1 / 1А
製造:DAR ボジュリシュテ工廟 (1926-1928)

 それまでのU-1、DAR-2のごとき第一次大戦時中のドイツ機のコピー生産から脱し、初めて自国オリジナル設計での量産化に成功した、ブルガリア航空産業にとって記念すべき機体である。
初等練習機としての使用を想定した、鋼管羽布張り(一部木製)の単座・複葉機であり、1926年より製造された。
まず60馬力のワルター・NZエンジンを搭載した前期型が12機製造されたが、1928年からは85馬力のワルター・ヴェガエンジンを搭載する後期型(DAR-1Aと呼称)に生産が切替えられ、こちらは8機が製造された。
 初等訓練機として採用された本機は、その堅牢な構造と癖のない操縦性により好評を博し、1942年まで継続使用された。各種実験プラットフォームとしても活用され、落下タンクを搭載して36時間連続飛行に成功した記録もある。

DAR-3"ガルヴァン"

戦闘機
ブルガリア語:ДАР-3 «Гарбан»
製造:DAR ボジュリシュテ工廟 (試作1927-1929 量産1936-1939)


ブルガリア初のオリジナル設計戦闘機で、鋼管羽布張り(一部木製)構造を採用した複座・複葉の機体。

1927年にロレイン・ディートリッヒ・エンジンを搭載した第一次試作機(DAR-3 P-1)が初飛行。第一次試作機の問題点(エンジンの馬力不足など)を踏まえて1929年にはノーム・ローン ユピテル・エンジンを搭載した第二次試作機(DAR-3 P-2)が製造されるも、量産化は1936年までずれこんだ。
まず1936年に、ライト・サイクロンエンジンを搭載したI型が6機製造された。続いて1937年に6機製造されたII型は、シーメンス・ユピテルVI型エンジンを搭載したが、エンジン潤滑システムの欠陥からトラブルが多発、後年アルファロメオ・126 RC.34型エンジンに換装された。このイタリア製エンジンは信頼性が高く、また馬力も以前のエンジンと比べ勝っていたため、1939年に製造された最終型のIII型にも採用された。
合計12機が製造されたIII型は新進気鋭の若手技師ツヴェタン・ラザロフ、キリル・ペトコフらによる改良が施され、NACAカウリングや全周式風防などを採用して近代的な外観となっていたほか、胴体構造の強化により200kgまでの爆弾を懸架可能となっていた。

本機は第二次大戦中、マケドニアでの近接航空支援において活躍し、戦後は戦時賠償の一環としてIII型10機がユーゴスラヴィアに引き渡された。

DAR-4

輸送機
ブルガリア語: ДАР-4
製造: DAR ボジュリシュテ工廟 (1930・試作のみ)

 箱型胴体を採用したユニークな3発機で、乗客4名・貨物840kgまでを積載可能な設計としており、輸送機および連絡機としての使用を想定していた。1931年には試験飛行が行われたが、着陸時の不安定な挙動、エンジンに起因する激しい振動などといった欠陥が露呈し、そのまま廃棄処分とされた。機体登録番号(レジ・ナンバー)も工場製造番号(シリアル・ナンバー)も与えられることなく姿を消した、まさしく幻の機体であった。

DAR-5

高等練習機
ブルガリア語: ДАР-5
製造: DAR ボジュリシュテ工廟 (1930・試作のみ)

 それまでの初等練習機(DAR-1など)に加え、戦闘機パイロットを養成するための高等練習機として設計されたのが、このDAR-5である。複葉・単座で鋼管羽布張り(一部木製)構造としている。
 コックピットから始動可能なセルフ・スターターを試験的に搭載しており、地上設備が貧弱な飛行場での使用も想定している。また空力性能を向上すべく、エンジンブロックを覆うフジツボ状のカウリングが採用されている。このユニークな形状のカウリングはキリル・ペトコフ技師の設計によるもので、後年彼が関わることとなるLaz-7M、Laz-12などの機体においても類似のカウリングが採用されている。

 戦闘機の保有を禁じたヌイイ条約の規定に抵触することもあり、本機は1機のみの試作に終わった。

DAR-6 / 6A

初等練習機
ブルガリア語: ДАР-6 / 6А
製造:DAR ボジュリシュテ工廟 (1931-1938)

 それまで生産されていたDAR-1型機に替わる新たな設計の初等練習機で、上下の翼を共通規格として互換性を持たせるなど整備性に配慮した設計だった。
1936年生産型からはエンジンを85馬力の「ワルター・ヴェガ」から145馬力の「マルス」に変更。1938年には後継機「DAR-9」へのつなぎとして、180馬力のBMW・Sh 14A-4を搭載した「6A」型が1機のみ製造された。
DAR-7 戦闘機
ДАР-7
製造:DAR ボジュリシュテ工廟 (1931・ペーパープランのみ)

 7.92mm機銃を4丁装備した複葉戦闘機のペーパープランで、ブルガリア初の本格的な戦闘機設計であった。480馬力のエンジン出力、および戦闘機としての性格がヌイイ・シュル・セーヌ条約の制限条項に抵触するため、試作・量産は見送られた。

DAR-7 SS.1

連絡機
ブルガリア語:ДАР-7 СС.1
製造:DAR ボジュリシュテ工廟 (1933-1935・試作のみ)

 単葉・複座の試作連絡機で、キリル・ペトコフ技師による設計。木製モノコック構造の胴体、滑らかな密閉式風防、脚部スパッツの造形など、それまでのブルガリア機とは一線を画す洗練されたデザインである。しかし搭載されたエンジンがわずか130馬力のデ・ハヴィランド・メジャーであり、明らかにアンダーパワーであった。より強力なエンジンを搭載した量産型の製造も検討されたが、当時のブルガリア当局が前例に則った保守的な設計を支持したこともあり、革新的な設計の本機が量産されることはなかった。

DAR-8 /8A"スラヴェイ"

練習機
ブルガリア語: ДАР-8 / 8А ≪Славеи≫
製造:DAR ボジュリシュテ工廟 (1937-1938)

 DAR-7 SS.1と同じくキリル・ペトコフ技師による設計であるが、前作とは打って変わって複葉・複座の保守的な設計を採用している。
ワルター「メジャー」エンジンを搭載した基本型が11機、「マルス」エンジンを搭載した出力強化型の「8A」が1機製造された。

DAR-9 "シニゲル"

初等練習機
ブルガリア語: ДАР-9 ≪Синигер≫
製造:DAR ボジュリシュテ工廟 (1940)/DSF ロヴェチ工場 (1941)

 ツヴェタン・ラザロフ技師による設計で、フォッケウルフFw-44「シュティーグリッツ」をベースとして大幅な改良を加えたものである。
 まず「DAR」工廟にて6機が製造後、より大規模な「DSF」ロヴェチ工場に製造が移管され、36機が製造。合計製造機数は42機と、それまでの「DAR」製各機とは一線を画す大規模なものであり、第二次大戦中のブルガリアにおけるパイロット養成に大いに活用された。
 戦後のブルガリア人民軍でも訓練機として使用されたほか、隣国ユーゴスラヴィアに譲渡されたものもあり、そのうち1機がザグレブの航空博物館にて展示されている。


 DAR-10 A/F "ベカス"

軽爆撃機・偵察機
ДАР-10А/Ф ≪Бекас≫
製造:DAR ボジュリシュテ工廟(1940・A型試作)/DSF ロヴェチ工場(1945・F型試作)

 襲撃機・戦術偵察機についてのブルガリア空軍の要求に基づいて1938年より設計が開始された機体である。なおカプロニ・ブルガリア(SFBK)社でも同要求に基づき設計が行われ、こちらは「KB-11」型機として1940年に初飛行した。
 7.92mm前方機銃・後方防護機銃・350kgまでの爆弾搭載能力を備えた「A」型試作機はツヴェタン・ラザロフ技師の設計によるもので、1940年に初飛行。同年に初飛行したライバルの「KB-11」型機と比べ先進的な構造をとっていたほか、構造模擬空戦においてアヴィア「B-534」型機(当時ブルガリア空軍が主力としていた、チェコスロヴァキア製複葉戦闘機)に勝利をおさめるなど優秀な性能を示したが、空軍が「KB-11」を選定したため量産化は見送られた。なお同試作機は1942年10月に悪天候の中墜落した。

 A型の量産見送り後、ラザロフ技師はA型をベースとした戦闘機の開発を提案したが、ドイツからのBf109G-2輸入およびアヴィアB-135の部品輸入・組立計画が進展していたことから、この提案も退けられた。ラザロフは次いでA型のエンジンを強化し、エア・ブレーキを搭載して急降下爆撃能力を付加した改良型の試作を提案した。この案に基づいた「10F」型は1945年3月に初飛行した。
 急降下爆撃能力の付加に加え、20mm機関砲2門・7.92mm後方連装防護機銃・500kgまでの爆弾搭載能力を持つ「DAR-10F」は、ドイツの「Ju-87」やソ連の「IL-2」と遜色ない性能を持つ優秀機であった。しかし開発期間が長引いたことによる設計の陳腐化、そして共産党政権の成立による政治的混乱のため、それ以上の改良は見送られた。

 「F」型試作機は1950年代中頃までボジュリシュテ航空工科学校にて教材として使用され、その後解体された。

出典

※ 出典はすべて"Aircraft Manufacture in Bulgaria"(Dimitar Nedialkov 著, ALBATROS MDV PUBLISHING, 2009)に依る。

※ こちらの記事は、筆者のWebサイト(https://pier3.penne.jp/bulavia/top.html)に掲載されたリスト(https://pier3.penne.jp/bulavia/aclist01dar.html)を転載したものです。

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