見出し画像

源氏物語 現代語訳 夕顔その9

 静まりかえった夕暮れ時、空模様も実に味わい深いものがあります、御前に広がる前栽がすっかり枯れ、虫のすだきが聞こえます、紅葉がようやく色づき始めて、まるで絵に描いたように情緒豊かな風景を見渡し、右近は、思いがけず心躍る出仕をする羽目になったわと、以前の夕顔の咲くあばら屋を思い出して恥ずかしくなります。

 竹林で家鳩という鳥がぶっきらぼうに鳴いているのを耳にされ、いつぞやの院でこの鳥が鳴いていたのにいたく怯えておられた愛しい面影が脳裏を過り、「そう云えば歳はおいくつだったかな。同年代の女人たちに比べずいぶんとか弱いようにお見受けしたが、あれもまた長くは生きられない現れだったのかもしれん。」そうしみじみ仰います。「十九になられていたかと存じます。この右近は、すでに亡くなっております乳母の娘でございますが、母が私を置き去りにしてあの世へ旅立ちましたので、不憫に思われたお父上の三位の君が可愛がってくださり、常にお側に置いて養い育ててくださいました、そのありがたさを思い起こしますだに、どうしておめおめと生き残れましょう。歌にあります『いとしも人に』ではございませんが、ただもう悔しくて。いかにも頼りなげになさっておられた方を頼みに、これまでお仕えしてきたのでございますから。」と申し上げました。

「今にも折れそうなほど頼りなさげな女にこそ惹かれるものなのだよ。頭がよく廻り、人の云うことに耳を貸さない女は可愛げがない。私自身、明快で真っ直ぐな性格ではないから、女はひたすらなよやかで、ややもすれば男に騙されてしまいそうでいながらも、それでいて内心は慎み深く、伴侶の心に添うよう心掛けているのが愛しいと思う、そういう女を自分の色に染めて一緒に暮らしてゆけば、仲もいっそう深まるであろう。」などと仰いますと、右近は「そういうお好みからはまったくかけ離れてはおりませんでしたのに……、そう思いますだに口惜しくてなりません。」そうこぼして泣いております。空がわずかに曇って、風がひんやりしてきたお庭をしばらく眺めておられまして、

見知っていた人が煙となられた、あの雲がそうかと思うと夕べの空もどこか親しみを感じてしまうなぁ

と独り言を呟かれましたが、右近からは返歌が聞こえてまいりません。ああ、この場に姫様がいらっしゃったら、と感きわまったのでしょう。源氏の君はあの夜耳障りだった砧の音を思い出すだけで恋しくなられ、『まさに長き夜』と白楽天の詩を吟じられてお眠りに就かれました。

 例の伊予介のところの小君がたまに参上することもあるのですが、取り立てて以前のようなご伝言を賜ることもありません、きっと鬱陶しい女とお思いになられ見切ってしまわれたのだろう、まことに申し訳ないことをしたと反省しておりましたところに、あれから病に臥されたとの話を聞きつけ、さすがに気落ちしております。これから遠い田舎の国に下ってゆく段になって、やはり心淋しくなり、憶えておられるかしらんと、試しに、「ご病気の旨承り案じておりますが、言葉にするのはとても……

見舞いの言葉ひとつないのを不審に思われるお言葉もないまま時が経ち、私の心は乱れるばかりでございます

歌にあります『益田はまこと』のように生きております甲斐がございません」と詠みかけてまいりました。おや珍しいと、源氏の君も改めて興をそそられます。「生きている甲斐がないとは何方の台詞でしょうか、

空蝉のような方とのお付き合いは疎ましいものと知ってしまったはずなのに、今もってそのお言葉が心に引っ掛かるのは何故でしょう

なんとも儚いですねぇ……。」と、病明けの覚束ない御手で乱れ書きなさいましたが、その筆跡の美しさたるや惚れ惚れいたします。今もなおあの夜の裳抜けをお忘れになっておられないと知り、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになりました。と、こんな具合にまだいくらかは気がある素振りを見せつつやり取りいたしてはおりますが、距離を縮めようなどとは金輪際思わず、せめて口説き甲斐のない女くらいに受け取っていただいて関係を終わらせてしまおうと目論んでいるのでした。

 一方で空蝉の義妹にあたる方ですが、どうやら蔵人の少将を通わせ婿に迎えたらしいと聞き及んでおいでです。怪態な!私との関係が知れたらどう思うだろうか、と少将の胸中を慮りながら、同時にあちらの女人が今頃どんな顔をしているのか知りたくなり、小君を遣わし「死ぬほど思い詰めておりますこの心、ご存じでしょうか」と伝言します。

微かでも軒端の荻を結ぶことが叶わないなら、露ほどの文句も何に掛ければよいのでしょう

伸びやかな荻に結んで、「内密に」と仰いましたが、まかり間違って少将の目に入り、差出人が割れたとしても、私であるとすぐに察するだろうから、もしばれても罪は赦されるだろう、と思われたりなさる自惚れは本来あってはならぬものでございます。折よく少将のいない隙に手渡しますと、心が痛みますがそれでもこうしてお忘れにならずにいてくださったこと、さすがに喜びは隠せず、すぐさま早いだけが取り柄のお返しをいたします。

ほのめかすような風が吹いてまいりましたが、こちらの荻の下はすっかり霜が降っております

元々悪筆なのを、なんとか誤魔化してそれっぽく見せようとした筆跡にはこれっぽっちも品がありません。あの折火影に照らされて目にされた顔を思い出そうとなさいます。なかなか靡かないまま差し向かいで座っていた別の人は、どうにも嫌いになれない佇まいだったけれど、こちらは何の奥深さもなさそうでただ得意気にはしゃいでいたなぁ、と思い出され、でもまぁあれはあれで悪くもなかったなどと相も変わらずお考えになられるとは、古今集ではございませんが『懲りずまに又』とありがたくない呼び名を頂戴してしまう気まぐれ心ゆえでありましょう。

この記事が参加している募集