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源氏物語 現代語訳 葵その7

 御法事はつつがなく終了いたしましたが、四十九日までは引き続き左大臣邸に籠られておられます。生まれて初めて味あわれる無聊の日々に同情され、三位となられた頭中将が毎日のようにご機嫌伺いにおいでになり、四方山話の数々、時には大真面目なお話、またある時には例の一寸いかがわしいお話などをお聞かせしながら慰めて差し上げます折々、あの典侍のいつぞやの逸話を持ち出されては思い出し笑いをなさっておられます。源氏の君は、「なんて可哀想な。あのお祖母様をそんな風に笑い者になさってはいけませんよ。」と諌められつつも、ご本人もいつもつられて笑っておられます。懐かしい末摘花邸でのあの十六夜の朦朧としていた秋の夜の出来事など、それだけでなく、ありとあらゆる武勇伝をこの際とばかりに打ち明けられ、やがては人の世の無常にまで言及された末に、さめざめと泣かれることもおありのようです。

 時雨になり、うら哀しいある日の夕まぐれ、頭中将は鈍色の直衣、指貫ともに薄い色目に衣更えし、すこぶる精悍な、こちらが気恥ずかしくなるほど見るからに男前ないでたちでおいでになりました。折しも源氏の君は、西の妻戸の高欄に凭れかかり、霜枯れの前栽をぼんやり眺めておられたところでした。風が吹き荒れ、時雨がざっと降りますと、涙も競い合う心地がして、「雨となり雲とや成にけん、いまは知らず」そう頬杖をつきながら独りごちておられるお姿に、もしも自分が女だったら、この人を残して死んでも魂は必ずこの世に留まるだろうな、と頭中将は根っからの好き者ですからついじっと見詰めてしまいつつも、すぐ側に座られます、その気配にしどけなく寛がれておられた源氏の君は御直衣の紐だけを直されました。こちらは、頭中将より若干濃い色目の夏の御直衣に紅のつややかな下襲という地味目の装いですが、それが不思議なことにいつまでも惚れ惚れと見ていたいような心地にしてくれるのです。

 頭中将もまたしんみりとした眼差しで空を見上げておられます。

「雨となり時雨を降らせる空の浮き雲、どれがあの人の雲かと眺めましょうか

行方も知れません。」と問わず語りに呟かれましたら、

「亡き妻の雲が降らせる雨、時雨となって今日この頃は空も一段と暗くなっております」

そう口にされるご様子に、断ち切れぬ想いがまざまざと見て取れ、不思議なものだ、ここ何年というものさほど思い入れがおありとも見受けられなかったけれど……、ただ桐壺院がご心配のあまりお諌め遊ばされたり、左大臣のご対応も申し訳なく、母大宮は叔母にあたられることなども含め、方々に差し障りがあるがためにすっぱり振り捨てることも出来かねて、鬱々となさりながら夫婦関係を続けておられるのだなと同情したことも度々であったが、実のところは一等重きを置く掛け替えのない方と思われていたんだなぁと、その事にはたと気付かされ、慚愧の念にかられておられます。あらゆる方面で光が失せてしまった心地がして、すっかり気落ちなさっておいでなのでした。

 枯れた下草に紛れて、竜胆や撫子などが健気に咲いておりますのを手折らせられた源氏の君は、頭中将が帰られた後、若君の御乳母の宰相の君に命じて、

「枯れ草の垣根に残っております撫子を、お別れした秋の形見と見ております

香りが劣るとご覧になりますでしょうか。」と母大宮にお遣わしになられました。まことに無邪気に笑っておられるお顔の美しさといったらありません。大宮は吹きつける木枯しにつけてさえ、はらはらと舞い散る枯れ葉よりも意気地のない御涙は、まして堪えようもないのでございます。

今も見てむしろ袖を朽ちさせるほど泣き濡れております、荒れ果てた垣根の大和撫子を

 依然として所在ない日々が続いておりますから、朝顔の姫宮に、今日のうら淋しさならおそらく理解していただけるはずと推察される稟質でいらっしゃいますので、ずいぶん暗くはなっていたのですがお手紙をお遣わしになられました。すっかり間遠になっておりますが、そんなご関係になって久しい源氏の君からのお便りですので、咎め立てもせずすんなり姫にご覧いただきます。時雨の空を思わせる薄墨色の唐の紙に、

とりわけ今日の夕暮れは袖を濡らすものがあります、物想いに耽る秋は数限りなく経てきましたのに

いつも時雨は。

と認められております。筆跡からしてお心が籠っており、いつにも増して見とれてしまうほどです、これはお返事しないわけにはまいりませんね、と女房たちが口を揃えますし、ご自身もそう思われますので、

大内山に思いを馳せますが、とてもお便りまではしかねまして……。

と前置きされた上で、

秋霧の立つ頃先立たれたとお聞きいたしましてから、この時雨の空をどんなお気持ちで眺めておられるのかと思っております

とだけ、消え入りそうな墨付きが気のせいかもしれませんけれど奥ゆかしく感じられなりません。どんな女性とお付き合いしても、実際に逢って見勝りするということは世間広しといえどまずありえません、ですのに、どういうわけか自分につれなくする人を無闇にありがたがるというのが、この源氏の君の困った御性分なのです。冷たくあしらいながらも、しかるべき折々の情緒を見逃すことなくお相手する、これこそがお互いの情愛を深めてゆく肝のようなものですが、やはり嗜みと趣味が良過ぎてつい人目を引いてしまうとなると、自ずから欠点も露呈してしまうというもの、ですから西の対の姫は決してそういう風にはお育てすまいと固く決められておられるのです。西の対の姫といえば、このところはずいぶん暇を持て余し自分を恋しがっておられるだろうな、と必ずしもないがしろにしているわけではありませんが、単に母親のいない子を置いているだけという心境ですから、たとえ逢えなくとも、後ろめたかったり、どう思われておいでかと気掛かりになるようなこともありませんので気が楽なのです。

 とっぷりと日が暮れましたので、すぐ側に灯りをともされ、こんな夜に相応しい女房たちだけを選りすぐってお話をなさいます。中の中納言の君という女房は、ここ何年かこっそり逢い引きしておりましたが、さすがに喪中の間はそういうご関係を断たれております。そんな源氏の君の節度をなんとお優しいと感じ入っております。大方の者たちにはそれでも懐かしそうに話し掛けられ、「このところはずっと、在りし日よりもずっと誰彼の隔てなく睦まじくしてきたのに、この先いつもこんな風に逢えなくなってしまったら、恋しくてたまらなくなるだろうね。ああいう別れは特別悲しいことだけれどもそれはそれとして、いろいろと考えることが多過ぎて気が滅入ってしまう……。」そう口にされますと、皆々泣きじゃくり、「今さらあれこれ申しましても詮ない御不幸につきましては、さながら闇の中にぽつんと取り残された心地がいたしますのも致し方ございませんが、これを機にすっぱりこちらの御宅をお見限りになられることを考えただけで、もう……。」と最後は言葉になりません。不憫に思われた源氏の君は、一同を順繰りに見渡され、「見限るなんてことが出来ようか。私をそんな血も涙もない人間と思うかね。寛容な物事を長い目で見てくれる人ならいつかきっと分かってくれるはずだ。……それにつけても、人の命というものはなんとも儚いものだねぇ……。」と仰ってしんみり灯りに見入っておられる涙ぐんだ眼差しは無類の美しさでございます。

 亡き北の方が分けても可愛がっておられた女童が、親たちもおらずいたく心細がっていますのを、無理もないとご覧になり、「あてきはもうこれからは私を頼ることになるのですよ。」と仰いますと、おいおいと大泣きいたします。子供用の衵を、誰よりも黒く染め、黒い汗衫に萱草の袴などを着ておりますのも、愛らしい姿です。「昔のことを決して忘れたりしない人なら、たとえ淋しい日々に耐えても、若君を見捨てたりなさらないでくださいね。在りし日の名残もなく、この上貴女たちまで去ってしまったら、寄る辺なさもいっそう募るだろうから。」などと皆々がいつまでもご奉仕してくれることを願うのですが、どうでしょう、そう仰る方がまず離れていってしまうのではないでしょうか……、と誰もいたく不安に感じております。左大臣は、皆の者に、それぞれの身分に応じて、ささやかな日用品諸々の他に、亡き娘の形見となるような大切な物まで、なるたけわざとらしくならないよう心を砕きながらお配りになられました。

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