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源氏物語 現代語訳 空蝉その二

 どうやら碁を打ち終えたらしく、途端にざわつきはじめ、お付きの女房たちが座を離れる気配などがします。「若君はいったい何処に行かれたのかしら。こちらの御格子は閉めてしまいましょうか」そう云って音を立てて戸締まりしています。「静かになったぞ。中に入って、本当かどうか確かめた上で上手に立ち廻っておくれ」と囁かれます。当の小君は、姉君のお心が揺るぎないほど頑ななのを重々承知しておりますから、取りつく島もないので、人がいなくなってから頃合いを見計らって中にお誘いしようとの魂胆なのです。「紀伊守の妹もひょっとしてここにいるのかな。ならちょっと見せておくれ」と仰いますので、「それはご無理というものでございます。格子には几帳が添えられておりますゆえ。」それはまぁそうだろうな、ところがこちらは既にもう見ているのだよと内心苦笑されましたが、真相は明かされません、小君がちょっと可哀想になり、早く夜更けになればいいのにとだけ漏らされました。
 
 格子は閉じられてしまいましたので、今度は妻戸を叩き内側から開けさせました。一人残らず寝入ってしまったようです。「今夜僕はこの障子口に寝るとしよう。風よ吹け吹け」と云いながら上敷を広げて横になります。女房たちが、東側の庇のある部屋で雑魚寝しているようです。さっき戸を開けてくれた女童もその集団に紛れ込んで寝てしまいましたので、しばし寝たふりを装ってから、明るくなっている方に屏風を移し、暗くなった所へそおっと源氏の君にお入りいただました。どうなることか、またぞろみっともない目に遭うんじゃないかと懸念され、慎重の上にも慎重になられておられますが、小君に導かれるまま、母屋の几帳に掛かっている布を引き上げられ、忍びやかにお入りになられましたけれど、なにせ一同寝静まっておりますから、上質なお召し物の衣擦れの音が、ことさらに聞こえてしまうのでした。

 女君は、ようやくお忘れになってくださったことを喜ぼうとする反面、あの悪夢のような想い出がいつまでも頭を離れない日々ですので、ぐっすり熟睡なぞ出来ようはずもなく、昼はただぼんやりとして時をやり過ごし夜は夜でまんじりともなさらず、春ならぬこの「目」も開いたまま嘆き暮らしているさなかに、囲碁の相手の女君が「今晩はこちらに泊めていただくわ」と云って、愉快な四方山話に耽りながら寝入ってしまったのでした。罪のない若い人は心おきなくぐっすり眠っているようです。とその時、衣に焚き染められた芳しい香りがふいに鼻先を過り、頭をもたげましたところ、脱いだ単を掛けてある几帳の隙間から、何者かが暗い中を音も立てずに忍び寄る気配をはっきりと感じました。なんたる浅ましさ!と気が動転し、こっそり起き上がり、絹の単一枚だけを羽織ってそこから滑るように脱け出しました。

 源氏の君はお入りになり、一人きりで寝ているのをご覧になり、安堵なさいました。床から下がったところには二人ほどの女房が眠っています。衣を押しやって近付くと、あの日の感触よりずいぶんとでっぷりしているなとは思われたものの、よもや別人だとは思いもよりません。それにしてはあの夜とは違って寝相が悪過ぎるぞ……と訝しまれたところで、ようやっとご理解なさいました、なんとしたことかと後ろめたいお気持ちになられましたが、人違いしたと勘づかれるのも莫迦莫迦しくて、まず不審に思うであろうから、あくまでも本命を追い求めて云い寄ろうにも、肝心の本命がこうまで逃げ廻るつもりでいるようなら、追いかけてたところで所詮は無駄足、相手もさぞや痴れ者と思うであろう、と思われます。それもそうだがこの目の前の女がちょっと前に仄かな灯りで見たあの美人だとすれば、それはそれで悪い展開でもないななどと浮気心を起こされるのも、好き者ならではの悪癖と云えましょう。

 女はようやく目が覚めたところ、身に覚えのない状況にえらく魂消たようでしたが、何の奥ゆかしい嗜みも心構えもありません。ただ、男女のことをまだよく知らないにしては物分かりのいい方で、意気消沈し取り乱したりもいたしません。正体を明かそうかなとふと思われましたが、どういうなりゆきでこうなったのかとこの女が後々考えを巡らせた時に、自分のことはひとまずさておくにせよ、我が想い人のつれない女人に無闇に世間を憚らせるのも可哀想で気が引け、度々の方違えにかこつけてこちらに来ていたのもこうして貴女と結ばれたかったからなのですよ、などと実に巧妙に云いくるめられます。頭の廻る者でしたら薄々勘づくはずですが、さすがにまだ若く、小生意気に見えても、そこまでは考えが及ばないのでした。源氏の君も愛しいと思われないわけでもないのですが、心奪われるとまではとうてい思えません、それにつけてもとあの恨めしい人の薄情ぶりを憎んでしまわれるのでした。一体今頃何処に身を潜め、なんてしつこい奴と蔑んでいるのか、ああまで意固地な人が二人といようか!と思われますだに、生憎目の前の出来事になぞ気が紛れようはずもなくひたすら忘れ難く思われます。


その三に続く

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