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源氏物語 現代語訳 賢木その9

 父君の右大臣もまったく預かり知らぬある日、突然の豪雨に見舞われ、雷が激しく轟いた夜明け前、右大臣家のご子息達、大后の近習などが大騒ぎしはじめました、そこかしこに人目がありますし、女房どもも怯えきって宮の近辺に寄り集まってしまい、いかんともしがたく、源氏の君は身動きが取れなくなったまま夜明けを迎えてしまいました。御帳台の周りはぎっしり人で埋まっていますから、源氏の君も気が気ではありません。お二人の仲を知る女房が二人ほどが困惑しております。

 雷がおさまり、雨が少し小降りになってきたのを見計らって、右大臣がおいでになり、まずは大后の許へいらっしゃったのを、生憎村雨の音でまったく気付かれずにおりましたところ、そのうちお気軽にすっと入ってこられて、御簾を引き上げられ、「大丈夫ですか。夜のあまりの凄まじさに、心配しつつもつい伺いもせず失礼いたしました。中将や宮の亮などはちゃんとお側に控えておりましたでしょうね。」等々矢継ぎ早に喋られるご様子がなんとも早口でせっかちです、源氏の君はこのようなお取り込み中にもかかわらず、ついつい左大臣と比べてしまい、思わず吹き出しそうになられます。正直、きちんとお部屋に入られてお話になればよろしいのに。

 尚侍の君は困り果て、そそっといざり出てこられます、お顔がひどく赤らんでおり、まだ快癒されておられないと判断された右大臣は、「お顔色がいつもと違いますね。物の怪なんぞというものはしぶといですからねぇ。もうしばらく修法をさせればよかったんですよ。」と仰っておられる合間に、薄二藍の帯がお召し物にまとわりついて引き出されておりましたのに目を留められ、なんだあれはと訝しまれているうちに、また懐紙に手習いがされたものが几帳台の下に落ちているのを見とがめられました。一体全体これはどういうわけだと驚愕され、「それは誰のものかね。見たこともないものだ。こちらに寄越しなさい。誰のものかはっきりさせますから。」と語気を強められて初めて尚侍の君もはたとお気付きになり、誤魔化しようもなく、言葉を失ってしまわれました。

 茫然自失の呈でいらっしゃるのを、我が娘ながら情けないと思われたならば、右大臣ほどのご身分の方なら見て見ぬふりをなさるのが筋というものでしょう。しかしながらこちらの右大臣は気忙しくお心が狭くていらっしゃいますから、そのように頭が廻るはずもなく、懐紙を引っ掴んで几帳から中を覗き込まれましたところ、しどけない姿で添い寝している男がいるではありませんか。この期に及んで顔を引き隠し、その場を取り繕おうとしています。驚き呆れ腹が立って仕方ありませんけれど、白日のもとに正体を晒すわけにもまいりません。激怒のあまり目眩がしそうですが、懐紙を手に持ったまま大后のいらっしゃる寝殿へと戻られました。

 尚侍の君は生きた心地がせず卒倒しそうな塩梅です。大将源氏の君も、弱りきり、ついに日頃の不行状が積もりに積もって世間に後ろ指を指されるようになってしまったと観念されますが、女君の憔悴しきったお姿の不憫さに、懸命に慰めようとなさっておられます。

 右大臣というお方は、思ったことをそのまま口にされ、そっと胸にしまっておくことが出来ない御性分です、それに昨今の老いの僻みまでもが加わって、事の重大さに躊躇されるはずもなく、大后にずけずけと憤懣やる方ない思いの丈をぶちまけられます。「斯く斯く然々の事がございました。かつて親の目を盗んで始まった事でしたが、人柄に免じてすべての罪を許し、そのまま婿として迎え入れ面倒を見ようといたしました際には、歯牙にもかけず冷淡にあしらわれ、腹立たしい思いもいたしましたけれども、これも前世の因縁と諦め、傷物であるのをお上が大目に見てくださるのを頼みの綱として、当初の志通りこのように差し上げました次第です、ただやはり後ろ暗いところがございますから、歴とした女御ともお呼びにならないのが、かえすがえすも残念でなりません、そこにまたこのような事態にまでなってしまっては、なんとも暗澹たる気持ちになります。男にはありがちとは云え、大将もなんというふしだらな心根でありましょう。その上斎院にまで魔の手を伸ばし、密かに文をやり取りしていてどうも怪しいと噂している者もおります、世のためにならないのはもちろん、ご本人にとっても到底よろしいこととは云えませんから、よもやそのような不埒な所業には及ばないであろうと、当代随一の博学として聞こえ一目も二目も置かれておられる方ですので、これまで一度たりとも大将のお心を疑ったことなぞありませんでしたのに……。」等々切々と訴えられますのを、大后は右大臣に輪をかけて激しい気性でいらっしゃいますから、不快極まるご様子で、「帝帝と云いますが、以前より誰もきちんと敬意を払わず、左大臣にしてからが、目に入れても痛くないほど溺愛されていた一人娘を、兄に当たる東宮に奉らず、弟の源氏が元服する際の添い寝役として温存していたではありませんか、その上この尚侍の君もそもそも宮仕えさせる積もりでおりましたのに、あんな風にみっともない事態になりながら、誰かそのことで都合が悪いと非難する者がおりましたか。周り中があのお方の味方をしましたよ、それなのに本意を遂げられず、尚侍に甘んじているのが不憫で、たとえ尚侍であろうともお上のお情けにおいては引けを取らぬようにと、あんなにこちらを苛々させた忌々しい人の目もありますからね、そう思っておりましたのに、あの娘はこっそり自分が愛しいと想う相手に靡くんですね。ましてや斎院のことも、まず噂通りでしょうよ。何事につけ、お上のお立場を揺るがすようなことばかりするように見えるのも、いずれ訪れる東宮の御代に期待している人ですから当然と云えば当然でしょうね。」と怒り心頭で頭ごなしに云い募られますので、さしもの右大臣も憐憫の情が湧き、一寸云い過ぎたかなと臍を噛まれたらしく、「まぁまぁ、当面この事は内密に、ということで。お上にも申し上げないでくださいな。あの娘も、あんな過ちを犯したとはいえ、それでお上がお見限りにはならないだろうとたかをくくって甘えているのですよ。あくまで内々で戒めて、それでも心を入れ替えないのでしたら、その罪はこの身が引き受けましょう。」と仰いますが、大后のお怒りは収まりません。このように私が同じ御殿内にいて隙があろうはずもないのに、大胆不敵にも忍び込んで来るとは、こちらをないがしろにするにも程があるはっきり云って舐めくさっているとまで思い至られ、お怒りはとどまるところを知りません、ただ裏を返せばこの好機に謀を画策すればきっと首尾よく事が運ぶであろうなどと、企まれることもありそうなのでございます。

●編集後記●

〇六条御息所
光源氏と疎遠になり、娘とともに伊勢に下ることに決める。

〇藤壺
光源氏の父で夫の桐壺帝の死去後、出家を決意する。

〇朧月夜
右大臣の娘で弘徽殿女御の妹。光源氏と逢瀬を重ねていたことが発覚する。

光源氏の父である桐壺帝の死で、不穏な空気が流れだしてきましたね。
愛人である六条御息所は遠くに行ってしまい、愛する藤壺は出家し、敵対関係にある右大臣の娘との密会がばれ、結果的に光源氏も京を離れることに……。
政治的な事情で置かれた立場が変わっていくのは、昔も今もあまり変わりませんね。
個人的には朧月夜との関係が「ロミオとジュリエット」的な意味合いで好きなのですが、店主は朧月夜を誰で当て読みしているのか、今度聞いておきますね!

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