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源氏物語 現代語訳 空蝉その三

 とは云うものの、こちらの人の天真爛漫な若々しさもまたそそられはいたしますので、無下にも出来ずたっぷり情をこめてお約束をなさいます。「すっかり人に知られた関係より、こういう形でお逢いする方が愛しさもぐっと増すと昔から云われておりますよ。私のことを憎からず思っていてくださいね。世間を憚るようなこともおそらくあるでしょう、私も立場が立場ですから思うに任せられないこともあるのです。貴女の父上もきっとお許しにはなりますまい、そう思うだけでもう今からこの胸が痛みます。どうかお忘れなくお待ちになっていてくださいね。」等々、お為ごかしのお話をなさいます。「人がどう思うかと考えたら身の置き所もありませんから、たぶんお便りすることも出来ないでしょう。」と飾ることなく女が云います。「誰彼なく知られてしまうのは感心しませんが、こちらのお小さい殿上人に伝言を頼みましょうか。呉々も気取られぬよう応対してくださいね。」そう云い残され、件のつれない人が脱ぎ捨てていったとおぼしき薄衣をお手に取られて出てゆかれました。

 すぐ近くに寝ていた小君を起こそうとなさいますと、気を揉みながら寝てしまいましたので、すぐさま目を覚ましました。そぉっと戸を開けたところで年寄りの女房の声がしました。「あれは誰」とことさら大袈裟に問います。鬱陶しいなと思いながら「僕だよ」とぶっきらぼうに答えました。「こんな真夜中に一体何処へ歩いてゆかれるのです」そう差し出がましく訊いて表に出て来ました。頭にきて、「何でもない、放っといて!ここに出たかっただけなんだから」と云いながら源氏の君を押し出そうとしましたところ、「もうお一人いらっしゃいますね、どなた」と尋ねます。「なぁんだ女房の民部のお許じゃありませんか。見違えようのない相変わらずのっぽさん」などと云っています。上背のある女房はいつもこんな風にからかわれているようです。老女房はてっきり小君と民部のお許が連れだっているものと信じ込み、「間もなく若君も同じくらいの背丈におなりになりますね。」そう軽口を叩いて同じ戸から出てこようとします。源氏の君は若干狼狽され、それでも老女を押し返すわけにもゆかず、戸口に張り付くようにして身を隠しておられますと、すぐ側までやってきて、「あら、貴女今宵は姉君のところにお仕えしていたのね。私ねぇ、実は一昨日からお腹を壊しておりましてね、ほんとにもうどうしようもないので下がっておりましたら、人が足りないとの仰せで召集を受けたんですけど、今も痛くてたまらないの」と青ざめた顔で嘆きます。そうして返事も返さぬうちから「痛い痛い痛い!ごめんなさい、今はお話出来ないわ!」と足早に去ってゆきましたので、源氏の君はやっとのことで解放されお出になられました。案の定こういう忍び歩きは軽率のそしりをまぬがれず危険な綱渡りであると骨身に染みられ懲り懲りだと思われたのではないでしょうか。

 小君が御車の後ろに乗り、源氏の君はご自邸の二条院にお戻りになられました。昨晩の出来事を語り聞かせておやりになり、「幼過ぎるよ!」とひと言吐き捨てられ、爪弾きしてはあの方を恨んでおられます。そんな源氏の君がお気の毒でならず小君は言葉をお掛けすることも出来ません。「ここまで毛嫌いされてしまっては、いっそこの身が疎ましいとまで思ってしまったよ。いくら逢いたくないと云っても多少色好いお返事くらいはくださってもよさそうなものじゃないか。あの伊予介にさえ私は劣っているのだねぇ」等々、どうにも釈然としない思いを抱かれて仰います。それでも昨夜あの場に脱ぎ捨てられていた小袿を、さすがにお召し物の下に引っ張り込まれてお寝みになられました。小君を傍らに寝かせられ、延々と恨み辛みを述べられお話になられます。「お前はこんなに可愛いけれど、あの薄情な方の縁者であるのは確かなのだからずっと側に置いておくことも出来まいね」そう真剣に仰り、小君はやるせない気持ちで胸が張り裂けそうになります。しばらく横たわっておられましたが、お眠りにはなれません。急に硯を取り出されたかと思うと、後朝のお便りとなるはずもないので、懐紙に手習いめいた筆遣いで走り書きに認められました。

姿を変えた蝉の脱け殻が木の根元にありました、脱け殻を残していった方のお人柄を今も懐かしんでおります

そう書かれた紙を小君は懐深くお預かり申し上げました。それもそうだが、昨夜のあの美人も今頃どうしておいでかなとほんのり気にはなられましたが、よくよくお考えになられた末、お便りなさるのはお控えになられます。あの忘れがたい人の薫りが染みついている薄衣の小袿を、源氏の君は御身のすぐ側に置かれてただ見入っておられます。

 小君が自宅に戻りますと、姉君は待っていたとばかりに叱りつけられます。「とんでも目に遭ったのですよ!あれこれと取り繕いましたが、周りに誤解されることはまず避けられないでしょう、ほんとうにもうどうしたものか!あまりに幼稚でいらっしゃる、一体どうお考えになられておいでなのでしょう。」となじられます。あちらからもこちらのからも責め立てられ、小君は身の置き所がありません、そこでさっと件の手習いの懐紙を取り出しました。さすがの姉君も見ないわけにはまいりません。なんとあのもぬけの殻同然の薄衣を持ち帰られたとは!、伊勢の海女の歌のように萎れてはいなかっただろうか……、むしろその方が気がかりで、気が動転して考えがまとまりません、方や西の御殿にお住まいの方も、気恥ずかしいお気持ちを拭えないままお帰りになられました。もちろん知る人とていないわけですから、お独りで物思いに耽ってます。小君がしょっちゅう出たり入ったりしているのを見るにつけ、胸が痛みますが、源氏の君からのお便りはありません。無礼なことと思えるほどの分別も経験もありませんので、蓮っぱな娘としては若干満たされない思いなのかもしれません。一方の冷たい方は沈黙しておられますが、おざなりとも思えない深い源氏の君のお気持ちを知ってしまわれた以上、かつての身の上の自分であったなら……、と取り戻せない過去だと知りつつも、堪えきれなくなり、先ほどのお懐紙の隅にこんな歌を書き付けられました。

蝉の羽根にのった露は木々に隠れてしまいます、私も人知れず袖を濡らしておりますよ

●編集後記●

〇空蝉
「帚木」で光源氏と一夜を共にしてしまった人妻。その後はずっと光源氏を避け、逃げ続ける。

〇軒端荻
空蝉の友人。光源氏に空蝉と間違えられて契りを交わす。

逃げる「空蝉」をのぞき見したり、間違って空蝉の友人と寝てしまった後に空蝉の衣服を持ち帰ったり……いくらイケメンでも、やっぱりちょっと怖い気がします(笑)

ちなみに、空蝉に間違えられた「軒端荻」には、店主曰く、黒沢かずこさんを配役したい、と。
空蝉役の深津絵里さんと黒沢かずこさんが楽しく碁を打つ姿は、画面が楽しくなりそうで見てみたいと思いました。

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