見出し画像

源氏物語 現代語訳 賢木その6

 源氏の君が天台六十巻の書物を読まれ、疑問に思われたいくつかの箇所を説かさていらっしゃいますのを、この山寺に修行の甲斐あってありがたい光が射した、み仏が御面目を施されたと、下々の法師たちまでが歓喜に咽び合います。物静かに世の中を思いやられておられますと、ついつい山を降りてお帰りになるのが面倒になりますが、ただ一人のお人を想い続けるのも足枷となりますので、長居も出来かね、寺には丁重なお布施をなさいます。僧侶全員、上の者へも下の者へも、辺りの山賤に至るまでお品を賜り、尊い功徳の限りを尽くされて出立なさいました。お見送り申し上げようと、そこいらじゅう、賤しい身分の柴刈りどもまでもが一同に会し、滂沱の涙でお姿を拝しております。喪に服されおられますので黒塗りの御車に、紫のお召し物という窶れたいでたちでいらっしゃいます、取り立てて華々しいわけではありませんけれど、仄見えるそのお姿はやはり比類なきと思えるものでございました。

 西の対の姫君は、日を追うにつれ美しくなられるような気がいたします、すっかりお気取りされておられ、私たちの間柄のこの先はどうなるのだろう……と不安視されておられる雰囲気が感じられて、申し訳なくも愛しく思われます、おそらく虚しい恋路をさ迷い心乱れているのが感じ取れているのでしょう、いつぞやの歌にありました「色変わる」という文言が改めて胸に響き、常にも増して親密にお話をなさいます。

 山より持ち帰られた紅葉を、眼前のそれと比べてご覧になりますと、ここまで紅く染めた露の配慮が見過ごしがたく、ご無沙汰もさすがに人聞きが悪いほどとなっておりますので、さほど深いお考えもなく中宮に贈られました。命婦宛に、

「東宮にお逢いになられたと聞き、それは何よりと喜びました、東宮のお立場これからがずっと気にかかっておりますけれど、山寺でのお勤めにはあらかじめ決められた日数がございますゆえ、中途で切り上げるのも心に添いませんから、勢い今日になってしまいました。紅葉も一人で眺めては夜に錦を見るも同然。よき折にご覧になられてください。」と認めてお遣わしになりました。

 事実紅葉は見事な枝ぶりでしたので、中宮も目を見張られますが、ふと結ばれた文に目が止まります。周りも当然気づいておりますから、お顔色が変わられます、今尚このような不埒なお気持ちをお持ちなのか、あれほど心細やかな思い遣りのあるお方が、どうして不意にこのようなことをなさるのであろう、誰が目にも不審に映るであろうに……、と御気分を害され、瓶に活けさせて廂の柱の下に遠ざけてしまわれました。

 日々のあれこれはもとより、殊に東宮に関する事柄などは、心から源氏の君を頼りにしておられるようで、そういう時にはいつも的確で行き届いたお返事ばかりが返ってきますのが、いかにもご聡明で、同時に物足りなくも思われますが、あらゆる面での後見役ということになっておりますので、伺わないのも周囲が怪しむであろうと、中宮がお退がりになる日に合わせて参内なさいました。

 真っ先にお上の許に参上なさいますと、ちょうどゆったりお過ごしになられておられ、昔のお話はもちろん今のお話なぞもたっぷりとなさいます。お顔立ちも、亡き院に実によく似ておられ、更に優しげな佇まいが加わり、気さくな上に温厚でいらっしゃいます。故桐壺院のお子様同士、しみじみとお顔を見合わせておられます。尚侍の君と源氏の君との間柄について、今なおご関係が続いているらしいと耳にされ、それらしき気配を感じ取られることもおありのようですけれど、何、昨日今日始まったことでもなし、そんな風に心が通い合っているのなら、不釣り合いな二人というわけでもないのだから……、と大目に見て敢えて咎め立てもなさらないのでした。四方山話の他にも、漢学に関するお上の疑問点なぞをお訊ねになられたり、かと思えば色っぽい恋の歌にまつわるお話などまで、ご意見を和やかに交換され、そのついでにあの斎宮が伊勢に下られた日の事、まことにお美しいお姿であったとお上が申されましたので、源氏の君も一段と打ち解けて、野宮の忘れがたい早朝の景色をはじめとするありとあらゆるお話を余さず申し上げるのでした。

 二十日の月がようやく姿を現しました、すこぶる味わい深い宵となりましたので、お上は「こんな夜は管弦の遊びを催したいものだねぇ。」と仰いました。源氏の君は「中宮が今宵退出なさいますゆえ、ご挨拶に伺います。院の御遺言にもございましたし、また私以外にしかるべき後見役もいらっしゃいません、東宮とのご縁からも大切にいたさねばと心に期するものがございまして。」そう申し上げます。「東宮を養子とするよう等、院が云い遺され、格別に扱ってはいるけれど、そこまで特別扱いするのもどうかと思わないわけでもないんですよ。それにつけても歳にしては字もずいぶんと上達しているようですね。何かと手がゆき届かない私の面目を施してくれて嬉しく思っています。」とお上が申されましたので、「ほぼあらゆる面で、なさることが実に聡明でいらっしゃいますし大人びたところがおありですが、まだなにぶんにもお子様でいらっしゃいますので……。」等々、東宮の近況もご報告申し上げてから御前よりお退がりになりました。大后のご兄弟藤大納言の息子で頭弁という時流に乗った派手な若者がおります、おそらくは悩み事のひとつもないのでしょう、妹の麗景殿の女御の許に行く途中、大将源氏の君の従者がひっそりと先払いをするのに出くわし、しばし足を止め、「白虹が日を貫いた。太子は怖じ気づいたぞ。」と聞こえよがしに悠長な口振りで歌い上げました、源氏の君は甚だ不愉快な気分で聞いておられましたが、咎めるわけにもまいりません。大后のご機嫌が、このところ極めてよろしくないとのもっぱらの噂で、こういった近親者たちまでもが露骨に態度に表すこともあり、鬱陶しいとは思われますものの、出来るだけ素知らぬ顔をなさっておいでです。

「御前に伺候いたしておりまして、今まで夜を更かしてしまいました。」と申し上げます。

 月が見事に照り映えております、こんな宵には昔なら管弦の遊びをなさって華々しく過ごされたものであったなどとつい思い出されるにつけ、同じ宮中でも時が移れば変わる事が多くどうしても悲しい気持ちになります。

 九重に垂れ籠めた霧が隔てているのでしょう、今は雲の上の月をただ遥かに思い遣るだけです

そう命婦を介して中宮が嘆息なさいます。お近くにいらっしゃいますので、気配が仄かに漂ってまいります、お言葉が懐かしく聞こえ、恨む気持ちも忘れて先に涙が零れました。

 月の姿はかつて見た秋の夜となんら変わりませんのに、隔てる霧が私を苦しめるのです

霞も人も同じだそうです、昔もこんなことがあったのでしょうか……、などと仰います。

 中宮は東宮とお別れしがたい想いが強く、いろんなお話をなさいますが、東宮ご自身はさほど思い詰めてもおられぬようですので、いたく気掛かりでなりません。いつもでしたらもうとっくにお休みになられているはずですが、それでも今宵は母宮がお帰りになられるまで起きていようと思っておられるのでしょう。お帰りの際には恨めしそうになさいますものの、さすがに後に追いすがろうとはなさいません、そんなお姿がまことに健気に映られます。

 大将源氏の君は、あの夜頭弁の口ずさんだ言葉を思い返され、やましいお気持ちに囚われて、浮き世の人付き合いが面倒になり、尚侍の君にもなんらお便りをお遣わしになられないままずいぶんと日にちが経っておりました。そろそろ初時雨が来そうな頃合いになって、どういう風の吹き廻しでしょうか、なんとあちらから、

木枯しが吹く度に、いつお便りが届くのだろうと待っておりましたが、もうすっかりそんな時期も過ぎてしまいました

そう認められておりました。

 物思いに沈んでおられた折でしたし、無理をなさって内密にお書きになられたであろうそのお心が殊勝で、遣いの者を待たせ、唐紙をしまっておられる御厨子をわざわざ開けさせて、とっておきの一枚を選び出され、筆までも念入りにお撰びになられるご様子がなんとも艶めいていらっしゃいますから、お付きの女房たちも、一体何方に遣わされるのでしょうね……、とひそひそ耳打ちしております。

 いくらお便りを差し上げてもなしのつぶてなのにすっかり懲りて、がっくりきております。我が身ばかりが鬱陶しいと思える今日この頃、

相まみえることが叶わない当節を恨んでの涙ですのに、それをありきたりの時雨と思われておいでなのでしょうか

もし心が通い合っているのなら、たとえ長雨でも眺めているうちに憂さも晴れるでしょうに。

などと勢い細やかな文面となりました。

 とまぁこんな風に気を引こうとする方々もかなり多いようですが、当たり障りのないお返事を返されるだけで、どれもお心深くには届いていないようでした。

 中宮は、亡き桐壺院の一周忌に続いて、御八講の法会のご準備にいろいろとお心を砕かれておられました。十一月一日頃、折しも御国忌の日は大雪になりました。大将源氏の君が中宮に申し上げられます。

お別れした日が巡ってきました、またお目にかかれる日をいつと心の支えにすればよいのでしょうか

誰しもが、今日は悲しみに沈んでおりますから、お返事がございました。
生き永らえている日々はつらいものですが、こうして再び巡り逢いかつて院がいらした時代にまみえた心地がしています

取り立てて繕われた風にも思えぬ筆致ながら、貴く気品に溢れていると感じられるのは源氏の君の想いゆえのことでしょう。特有の書きぶりは今風な派手さこそありませんけれど、人とは違う格別な趣の漂う筆遣いでございます。今日ばかりは中宮への恋情も忘れ去り、降り注ぐ雪にしとどに濡れながら一心にお勤めを果たしておいでです。

この記事が参加している募集

#古典がすき

4,004件