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源氏物語 現代語訳 末摘花その4

 二条院にお戻りになられ、眠ろうとなさいますが、はやりこの世は思うに任せぬことばかりだと感慨に耽られ、姫のご身分を鑑みるだにこのまま捨て置くのは申し訳ないと気が咎めておられます。

 そんなこんなの想いが錯綜しておられるところに頭中将がおいでになりました、「優雅な朝寝坊でございますね。さぞわけありとお見受けいたしましたよ。」と云いますので、起き上がられ、「呑気な独り寝を貪って、つい寝過ごしてしまいました。宮中からいらっしゃったのですか。」とお訊ねになられなす、「そうです。真っ直ぐこちらに参りました。十月の朱雀院の行幸に際しての楽人、舞人を本日お決め遊ばすとのことでしたので、左大臣にもお伝えいたそうと一端退出いたしました。また折り返し戻らねばなりません。」そう忙しげにしておりますから、「ならばご一緒いたしましょう。」とお粥、強飯を運ばせて、客人にも振る舞われます、御車は二台ご用意しながら一台に乗り合わせられました、頭中将が、「やっぱり眠そうだ。」とちくりと嫌みを云い、「まったく隠し事が多くていらっしゃるからなぁ。」と恨み言を仰います。

 何かと決め事の多い日でしたので、結局源氏の君は終日宮中にてお過ごしになられました。

 あちらにはせめて後朝の挨拶くらいはと、憐れをもよおされ、夕方届けておやりになりました。雨が降り始めて面倒くさくなられ、ふと雨宿りでもとは思いつかれなかったのでしょうか。あちらでは後朝の文が着く刻限をとおに過ぎても届きませんでしたので、命婦もなんて痛々しいお姿でしょうと身の置き所もない心境です。当の姫君は、お心では恥ずかしく思われておられましたが、朝早く届くはずのお便りがずいぶん日が暮れて届けられましたのにも、それが無礼だとも特段気にしておられないようです。

夕暮れが晴れる気配が一向に感じられないように、貴女の心は閉じられたまま、そのうえ鬱陶しい雨まで降ってきました……

いつになったら雲間から陽が射すでしょう、もどかしくてなりません、と認められております。このぶんではおそらく今宵はいらっしゃらないでしょうと雰囲気を察したお付きの者たちはがっかりいたしますが、それでも「やはりお返事はなさらないと……。」と姫君をせっつきます、ご本人は困惑を極めておられますので決まりきった歌すらお詠みになれません、見かねた例の侍従が夜も更けましたのでこうお詠みになられてはとお教えいたします。

雨の晴れぬ夜にひたすら月を待つ里のようなこの心、どうかお察しください、たとえ貴方と同じ景色を見ていないとしても

やいのやいのと急き立てられて、年季の入った紫の白ちゃけたいかにも古ぼけた紙に、筆遣いはさすがにきちんとしておりますが、時代遅れの様式で行の天地を揃えてお書きになりました。源氏の君はそんなものに目を通しても無駄なのは承知しておられますからうっちゃっておかれます。

 自分のことをどう思っているのだろうかと、源氏の君は内心もやもやとされております。こういう状況を無念と云うのだな、とはいえもう取り返しはつかない、事ここに至っては先々までも私が面倒を見ようと腹をくくられるのですが、そのご覚悟を姫君の側は知る由もなくただただ嘆くばかりでございます。

 夜になり左大臣が宮中より下がられる際にお誘いを受け、連れだってお帰りになりました。朱雀院の行幸にまつまる催しにいたくご興味を持たれ、ご子息たちが一同に会されて口々に話題にされたり、各々舞の稽古に勤しまれたりなど、ほぼそれ一色で日々が過ぎてゆきました。気持ちが乗っているのか楽器を奏でる音もいつもよりやかましく、誰もが技を競い合い、日頃の管弦の遊びとは歴然と違う様相を呈しております。大篳篥、尺八の笛なども高らかに吹き上げ、本来なら地下の者が叩く太鼓までも高欄に転がしてこさせ、自ら打ち鳴らされながらおおいに楽しんでおられます。このような毎日ですので源氏の君もお暇がありません、それでもここだけは外せないという所へは合間を縫ってこっそり忍んで通われておられますが、例の姫君のところはさっぱりご無沙汰で、あちらではやきもきされられるだけさせられて秋もすっかり暮れてしまいました。それでも待ちわびておられますが、叶えられないままに時は過ぎてゆきました。

 行幸の日が近くなり、皆々様予行演習に余念のない頃、命婦が参内してきました。「どうしておいでかな。」などとお訊ねになり、それなりに気遣われてはおられるようです。近況をご報告し、「ここまで放置されるとは……、下々の者まで胸を痛めております。」と涙を流さんばかりに訴えます。命婦が敢えて引っ込み思案程度で済ませておこうと考えておりましたのを、強行されたのは他ならぬ源氏の君ですので、さぞ無分別だと思われているんだろうなと気が咎めておられます。

 姫君が、何も仰らず引き籠っておられますのを、想いやられますだに不憫で、「昨今はまったく時間が取れないんだよ。仕方ない。」と顔をしかめられ、「あまりに世の中をご存じないようだから、一寸懲らしめのつもりで、ね。」といたずらっぽく微笑まれます、その溌剌として愛嬌たっぷりなお顔を拝見いたしますと、命婦もつい顔がほころび、致し方ないわね、多くの人の恨みを買ってしまうお年頃だもの、思い遣りが足りず勝手気儘なのも当然だわね、としごく納得いたします。この怒濤の日々を過ぎた頃から、時折お訊ねになられるようになりました。

 あの紫の縁の姫を引き取られてからというもの、その養育に専心され、六条辺りにすら追々と寄り付かなくなられておられますので、ましてや荒れ宿には、お心のどこかでお気の毒と思われていながらも、若干気疎いと感じておられるのもむべなるかなと申せましょう、ですので尋常でない内気な方の正体を見極めたいというお気持ちも取り立ててないまま時は過ぎてゆきましたが、ある時ふと思い直され、よくよく見てみればいいところもあるかもしれない、いつも暗がりの中のたどたどしい手探りで、何かしらわだかまりのようなものがあるのだろうか、この目でしかと確かめたいものだと思われますが、灯りの下でまざまざと見るのもさすがに照れくさく、家の者たちが羽をのばしている宵の口にこっそり忍び込まれ、格子の隙間から中を覗かれました。

 とはいえ、当のご本人のお姿が見えるはずもありません。几帳などかなり年季の入った傷みかけのものが、昔からの定位置に押しやったり動かしたりしないまま設えられ、いまひとつ見晴らしが悪いのですが、年嵩の女房達がどうやら四五人いるようです。御膳に秘色らしい唐渡りの器、それもえらくみすぼらしいのに粗末で味もそっけもない食べ物が乗ったのを、御前から退がった女たちがぽそぽそと食べています。隅の間に寄り集まって、滅法寒そうな女房が、元は白衣だったのが信じられないほど煤けてしまっているのを着て、これまた薄汚れた褶を腰に結いつけておりますのが、そうとうに不恰好です。にもかかわらず櫛だけは型通りにずり落ちそうに挿している額が、内教坊や内侍所あたりでああいうのを見かけたこともあったなと、ついくすりとされてしまいました。それにつけても、こんな妙ちきりんな老婆たちが貴人を取り巻いていたとは、想像だになさっておられませんでした。

「まったく今年は冷えるわねぇ。長生きするとこんな年にも当たってしまうのね。」そう云いながら涙を流す者がおります。「亡き宮様の時分になんであんなに辛い辛いとこぼしたりしたのかしら。こうまで寄る辺ない身になっても人間生きてゆけるものなのね……。」と飛び上がらんばかりに身震いしている者もおります。口々に己が身の上のみじめさを愚痴り合い、耳にされますだに気が滅入りますので、そっとその場を離れられ、さも今到着したかのように格子を叩かれました。女房たちは「それそれ」などと云いながら灯り取り直して格子を開け、源氏の君をお入れいたします。

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