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源氏物語 現代語訳 賢木その1

 斎宮が伊勢に下られる日が近づいてきまして、御息所は云いようのない淋しさに囚われております。高貴で気位が高いと思われておいでだった左大臣家の姫君が亡くなられたのだから、今度こそは御息所が北の方となられるであろうと世の人々も囁き合い、御息所邸の者たちも期待に胸をふくらませておりましたが、それからというもの源氏の君のお越しもすっかり途絶えてしまい、心ない扱いをされるのを目の当たりにされますと、私を心底嫌っているのだろうと身に染みてお分かりになりましたので、あらゆる未練を断ち切り、ひたすら娘と共に伊勢へ旅立とうと思い立たれておられます。

 斎宮の御下行に親が付き添われるためしは特にありませんが、とうていお一人にはさせられないお歳であるのを口実にして、この憂き世と距離を置こうと決心なさいましたので、大将源氏の君も、さすがにこれきりのご関係となるのも残念で、お手紙だけは情感たっぷりに頻々と遣わされます。この期に及んで対面されるなぞもってのほかと御息所もお考えになられておられます。あちらは私を疎ましく思われておられることもあると云うのに、また逢ってしまえばまた物想いの種が増えるだけ、無益なことだと気丈に決意されておられるのでしょう。

 元の六条のお住まいにはごくたまに戻られることもあるようですが、きわめてひっそりと帰られますので、源氏の君もご存じありません。今住まわれておられる野宮は、そうお気軽に訪問出来るような所ではございませんから、もやもやとされながらいたずらに日々は過ぎてゆきます、そのうち桐壺院が特段重いというわけではありませんが、時折病に伏されることもおありだとのことで、それはそれでお心の休まる時もなく、御息所がご自分を薄情者と決めつけてすっぱりご縁を切られるのも心苦しく、あまりに人聞きも悪かろうとご自身を奮い立たせるようにして野宮に向かわれました。

 その日は九月七日あたりでしたので、もう待ったなしだと思われますと、御息所も幾分浮足だっておられます、立ったままでも結構ですので……、としきりに源氏の君からの御催促があり、今更逢ったところで……、と躊躇われつつも、それもあまりに内気過ぎますから、物越しの対面でよければと人知れずお待ちいたしておりました。

 遥か先まで続く野辺を分け入って辿り着かれた時点で、すでにえもえわれぬ情緒が漂っております。あらゆる秋の花々はとうに終わり、枯れ果てた浅茅ヶ原の陰ですだく虫の音に凄まじい松風が唱和して、どの琴かも聞き分けられないほどのかすかな音が耳許を掠めますのが、なんともなまめかしく感じられます。心を許しておられる近習だけを十人ほど、御随身も仰々しいいでたちではなく、いたって密やかにお出ましになりますが、この日のために配慮したお召し物があまりに麗々しいので、御供の風流を解する者たちは場所柄とあいまってしみじみと胸を打たれております。源氏の君ご自身も、なぜ今日までここを訪れなかったかと、今更のように過ぎ去った時間を悔やまれておられます。

 何の変哲もない小柴垣で外を囲い、板葺きの屋根屋根もいたって仮の住まいのような侘しい趣です。ただ、皮のついた黒木の鳥居の数々だけは、さすがに神さびて見渡され、本来ならこのような逢い引きには相応しくない景色です、お仕えする神官たちがそこかしこで咳払いしながらお互いに何事か云い合っております気配がしますのは、他にない光景と申せましょう。神への供物のための火を絶やさない火焼屋がほんのり明るんで、ほとんど人気もなく静まりかえっているこのような場所で、悩み多き人が過ごされる月日に想いを馳せられるだけで、いたく哀れで恐縮してしまいます。

 寝殿の北の対のしかるべき所に立たれてお隠れになり、ご機嫌を伺われますと、それまで聞こえていた琴の音がぴたりと止み、静淑に振る舞う女房たちの気配がいたします。いつまで経ってもなんのかんのと女房を通しての当たり障りのないお話ばかりで、一向にご本人が対面されるような兆しもありません、いたく不快に思われ、「このような外出も、今ではとんとままならなくなりました、そのあたりを斟酌してくださるのでしたら、どうかこんな風に注連縄の外で待ちぼうけさせるなどなさらずに、こちらは胸のつかえを取りたいだけなのですから。」と誠心誠意申し上げますと、女房たちも、「まったくお気の毒でございます、あんな風に所在なく立たれておられては、お可哀想で。」などとご報告申し上げますので、困るわ……、女房たちの手前みっともないし、斎宮もきっと子供じみた振る舞いと思われるでしょう、かと云って今更顔を出すのも躊躇われる……、そう自問自答され、いたく気が滅入るのですが、にべもなくあしらうほどの気力もありません、散々悩み抜いた挙げ句溜め息まじりに膝行され近寄られる身のこなしのなんという奥ゆかしさでありましょう。源氏の君は、「こちらでは、せめて簀にくらいは上がらせていただけるでしょうか。」とすでに縁側にお座りになられておられます。

 華麗に姿をあらわした夕月の下、典雅に振る舞われる源氏の君の立ち居振舞い、匂い立つばかりの気高さは、空前絶後のお美しさでございます。何ヵ月にもわたる積もり積もったお話を、さも耳に心地よくお上手に申し上げるのさえつい気恥ずかしさを覚えてしまうほどご無沙汰でしたので、たまさか手折られお持ちになっておられた榊のひと枝を、そっと御簾の内にくぐらせて、「私の心にも似たこの榊の変わらぬ色を道しるべに、禁断の垣根を越えて参りました。にもかかわらずこのようなあしらいを受けますとは……。」そう申し上げますと、

ここの垣根には目印になる杉もありません、なのにどうお間違えになって榊なぞ折ってこられたのでしょう

と仰います、

ここには生粋の乙女がおられると思い、ふと榊の香り懐かしくなり手折ってしまったのです

辺り一面の雰囲気は厳めしいものですが、源氏の君は御簾の中に半身を入れられ、敷居に凭れかかられておられます。

 いつでも逢いたい時にお逢い出来、相手からも心底慕われていると自負していた年月、若気のいたりの慢心から実のところさほど熱烈には想っておられませんでした。それでも、いつしか心の内に、この方には見過ごせない欠点がおありだと勘づかれて、はたと愛情も冷めてしまい、こんな風にすっかり疎遠になっておりましたが、久方ぶりの御対面にかつての日々がまざまざとよみがえり、溢れ出る想いに胸がつぶれそうになっておられます。これまでのことそしてこれからのことが脳裏を駆け巡り、気弱にも涙を零されました。御息所はそうは見えないよう包み隠されておりますが、それでも堪え切れないといった雰囲気が濃厚で、ますます憐憫の情を募らせた源氏の君はどうにか伊勢への下行を思い止まらせようとなさっておられるようでございます。

 月も西の山に隠れてしまったのか、趣深い夜空を眺めながら懇願なさる源氏の君のお姿に、積年のお怨みもおそらく消えたのではないでしょうか。長い時間をかけてようやくお別れしようという気持ちを固められたわけですから、やはりお逢いするべきではなかったと、かえって動揺され悩み迷われておいでです。

 殿上の貴公子達が連れだって訪れ、女房たちに懸想してやきもきし立ちすくむと云われる庭の佇まいは、確かに雅やかという点で名高いのも頷ける景観です。心の限りを尽くして想い想われてこられた間柄です、この期に及んで交わされる会話の数々を、ここに書き残すことなど出来ようはずもありません。

 次第に明けてゆく空の景色もまた、さながらこの場面のためにあつらえたかのようです。

明け方の別れは常に涙がつきまといます、それでも今日の暁はこれまで味わったことのないほどの秋の空ですよ

と帰りしな、手を取られて名残を惜しまれるお振る舞いが、しみじみと懐かしく思い起こされます。いたく冷たい風が吹き、松虫の鳴き枯らした声までもが訳知り顔で、取り立てて情緒に敏感でない者ですらつい耳を傾けたくなる程ですのに、ましてや抜き差しならぬ想いを抱えておられる方々にとっては、すんなりと歌を詠まれることもお辛いのでしょう。

ただでさえ秋の別れは悲しいもの、そこに音を添え悲しさを増してくれるな松虫よ

 後悔すべきことは多々ありますが、今更悔やんでもどうしようもありません、明けてゆく空に気まずくなられ立ち去られました。帰路の道々はさぞ露深かったことでしょう。御息所もいつまでも気丈ではいられず、ただその面影を偲び悲しみに沈んでおられます。月明かりに映されたお姿、今なお漂う妙なる薫りなどが、若い女房たちにも身につまされ、ともすれば道を踏み外してしまいそうなほど口を揃えて褒めちぎっております。「いかなる道をゆくとしても、あのような完璧なお方を袖にしてお別れするなぞ誰に出来ましょう。」と、立場もかえりみず涙ぐんでおります。

 後朝のお手紙が、いつにも増して心細やかですので、ふと引きづられそうにもなられますものの、引き返すことを迷われるようなことでもありませんから、考えたところで後の祭です。源氏の君というお方は、さほどの想いがない場合であっても、お手紙を認められる際にはたっぷり情感を籠められるそうですから、ましてやあらゆる面で一目置かれていた方との間ですから、このような辛い別れとなったことを残念とも未練とも感じられるのもむべなるかなと申せましょう。旅の御装束をはじめとして、お付きの女房たちの分まで、細々とした調度類などを誰もが賞賛するほど立派に揃えて差し上げますが、肝心の御息所は心ここにあらずでございます。軽率で嘆かわしい浮き名ばかりがひとり歩きし、浅ましい身となり果てたことを、さも今起こった悲劇のように、旅立ちの日が近づくにつれ、四六時中嘆かれておられます。

 斎宮は、まだお若くていらっしゃいますから、ずっと保留となっていた母君の御同行がこんな具合に徐々に定まってゆくのがただ嬉しくて仕方ありません。世間では、きわめて異例のことだと、陰口を叩いたりはたまた哀れんだりと様々好き勝手に云い合っているようです。何につけ、何をしようと周りからとやかく云われない身分の者は気楽なものです。なまじっか世に抜きん出たお立場の方々は、窮屈な想いをされることの方が多いようでございます。


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