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源氏物語 現代語訳 須磨 その2

源氏の君とのお別れに娘を失った悲しみが加わり悲嘆一色となりました、お帰りになられた後も、見苦しいほど号泣し合っております。

 自邸の二条院にお戻りになりますと、お側に仕える女房たちも、どうやら一睡も出来なかったようで、あちらこちらに群れ集い不条理な世の中を思ってただただおののいております。侍所には、常日頃より親しくお仕えしております者たちに限っては、お供する覚悟を決めておりますので、各々の私的な別れを惜しみに出掛けてしまったのでしょうか、人影もありません。さほど親密でもない方々は、単にお訪ねするだけでも重い罰を受け、差し障りばかりが多く、かつては馬や車が所狭しと犇めき合っていたのが、見る影もなく閑散としておりお寒い限りですので、世間の掌返しとはこういうものかと改めて重い知らされておられます。食器棚も数ヶ所に塵が積もり、畳も所々裏返してあります。今目に映るだけでもこの惨状なのだから、長く留守にすればどれほど荒れ果てるであろうと嘆息なさいます。

 西の対に赴かれますと、御格子すら下げられずまんじりともなさらぬまま思案に暮れておられましたので、縁側のそこかしこに幼い女童が臥しており、慌てて起き出しては騒ぎ始めます。麗しい直衣姿をお召しになられておられますのをご覧になられても心は沈むばかり、時が経てばこの者たちもずっとここにいてはくれず散り散りになってしまうのね……、などとまずあり得ないということさえ目に留まってしまわれるのでした。

「昨晩は斯々然々ありまして夜が更けましたからこちらには参りませんでした。いつものように心外だと勘繰られたのではありませんか。せめてこんな風にお近くにいる間はお目にかかる機会を減らさぬようにと心掛けておりますが、こうして都を離れようという際には、何かと片付けねばならない用事も多々あり、引き籠ってばかりもいられないのですよ。無常なこの世で、周りから不実な奴と後ろ指を指されるのも困りものですし……。」
そう仰られますと、「このような世の成り行きを見る以上に心外なことなどありましょうか。」とだけ口にされ、真剣な眼差しで思い詰めておられるお姿が、いつもとご様子が違うのもしごくごもっともなのです。

それと云うのも父君兵部卿宮が非道くよそよそしくなられ、今まではこちらにお心を寄せておられたにもかかわらず、このところ世間の目を鬱陶しがられてとんとお姿をお見せにならないばかりか、ご機嫌伺いすら寄越されないのが傍目にも恥ずかしく、こんなことなら源氏の君と結ばれたことをお知らせしない方がよかったかもしれないと悩んでおられたところ、継母にあたる北の方が、「幸せなひと時も束の間でしたわね。くわばらくわばら。あの娘は可愛がってくれる人とお別れする運命なのね。」と仰ったとか、そんな話がさる筋より漏れ聞こえてきまして、いっそう気が滅入り、父君へのお便りも取り止められましたものの、他に頼れる人とていらっしゃらず、ほんとうにお気の毒な現状なのでした。

「それでも、世間に赦されることなく長い年月を過ごさねばならない羽目になれば、洞窟の住居であろうとお迎えいたします。ですが今は駄目です、人聞きが悪過ぎます。朝廷より罰を受けた者は、日や月の光を浴びることすら厳禁で、気ままに振る舞うことも重罪となります。私自身の身は潔白ですが、こうなってしまうには前世からのそれ相応の因縁があると思えば、ましてや愛しい人を伴うなど前例がありません、はっきり云って今の世は狂っています、これ以上の辛酸を舐めることになるやもしれません。」など、懇懇とお諭しになられます。その後はお昼までお休みになっておられました。
 
 弟君の帥宮、三位中将たちがいらっしゃいましたので、対面なさるべく直衣をお召しになられます。無位無冠だからと、無紋の、いっそ風流に見える直衣をお召しになった、憂いを含んだお姿のなまめかしさと云ったらありません。鬢を繕われようと鏡台に寄られましたら、頬が痩けたお顔がご自身の目にも気品と清らかさを漂わせており、「なんとまぁげっそりしてしまったものですねぇ。ここに映った痩せこけた顔は実物なんでしょうか。やれやれ困ったことになりました。」と仰いますと、女君が目にいっぱい涙を浮かべてこちらをじっと見つめておられます、こみ上げてくるものを懸命に堪えておられるのでしょう。

この身はこれからさすらいの旅路を辿りますが、貴女の傍の鏡に映った私の面影は離れることはありませんよ

そう申し上げましたら、

離ればなれになっても影だけでもここに留まってくれるのでしたら、鏡を見るだけで慰められるでしょうに……

柱の影に身を潜め、涙が零れそうになるのをまぎらわせておられるお姿は、やはり綺羅星のごとくおらられる女人たちの中でも抜きん出ておられると、改めて実感させられるものでした。帥宮たちもしんみりとお話をなさった後、暮れかかる頃お帰りになりました。

 花散里が心細いらしく、始終お便りを寄越されますのも考えてみれば当然で、あの人にももう一度逢わなければきっと薄情者と思われるにちがいないとお考えになり、その夜またしても外出なさるのでしたが、どうも気乗りがせずぐずぐずされておりますうちに、すっかり夜も更けてしまいました、麗景殿の女御が、「まぁ、こんな風に数の内に入れていただけるなんて光栄ですわ。」と大喜びなさいますのをいちいち書き記すのも鬱陶しいでしょうからやめておきます。いたって倹しく暮らされており、ひとえに源氏の君の御厚情だけを頼りに過ごされてこられた年月です、この先いっそう荒れ果ててゆくであろうと憂慮されるほどに、御殿内はひっそりと静まり返っております。朧にさし昇った月が、広々とした池と鬱蒼とした築山周辺を照らしえもいわれぬ寂寥感を漂わせておりますのを見るにつけ、洞窟の住まいがつい脳裏に浮かびます。

 西面の当のご本人花散里は、こうまでして訪れてくださるとは思いもよらず鬱々としておられましたが、風情をいや増す月影がしっとりと艶っぽく照り映える中、優雅な身のこなしから、この世のものとも思えぬほどの霊妙な薫りが漂ってきますとともに忍びやかに入ってこられましたので、わずかばかり膝行されて、しばらくの間お二人で月を眺めておられます。そんなこんなですから、ここでもまた長々と積もるお話をなさっておられるうちに明け方近くなってしまいました。「夜ってこんなにも短かったですかねぇ。こんな束の間の逢瀬ですらまたの機会がもう巡ってこないと思えば、のほほんと考えなしに過ごした年月が悔やまれてなりません、過去にもまたこの先の将来までも話の種になりそうな身です、振り返れば心やすまる日々というものはありませんでしたよ。」と、過ぎ去りし日々を述懐されておられますと、鶏もしつこく鳴くほどとなり、まるで世間から身を隠すようにしてお帰りになりました。いつもの如く月の入り際と重なりまして、趣が加わり、しみじみと心打たれます。女君の濃い紅の衣裳に月が映りこんで、さながら涙に濡れた顔のようです、

月の姿を映すこの袖はうんと狭いものの、その艶やかな光をいつまでも留めて見惚れていたいものです……

思い詰めておられるご様子があまりに不憫で、同じお心ながら慰めのお言葉をかけられます。

いつかは必ず澄む月です、しばしの間曇った空を眺めてはなりません

考えても詮ないことです。ただ、知らぬ涙だけが心を曇らせてしまうのですよ、などと仰って、明けるか明けないかという頃合いに出立なさいました。

 万事滞りないようお申し付けになります。親身にお仕えし、権力に媚びない骨のある者たちだけに、邸内のあれこれについて事細かい役割をお決めになられます。この先お供する者たちにつきましては、また別にお撰びになられました。

 かの山里のお住まいで使われるお道具類につきましては、必要最小限の慎ましやかな物だけをうんと数を絞って取り揃え、しかるべき書物、白氏文集などを入れた箱のほか、琴を一張のみお持ちになります。堂々たる豪奢な道具類、華美な御召し物等は一切お持ちになりません、まるで山の民のようなご用意です。お仕えする者たちをはじめ、ありとあらゆる事を西の対に引き継がれ一任されます。御領地の荘園、牧場から、その他しかるべきあちこちの手形等、何もかもすべて譲渡されました。残る邸内の数々の倉と納殿に至るまでは、かねてより少納言を有能と見込まれていましたので、信用のおける家司たちをつけ、采配の手順等を相談させることにし、お預けになりました。

 ご自身のお近くで使っておりました女房たち、中務や中将といった者は、これまでぞんざいな扱いを受けておりましたけれど、お側に置いていただけているだけで幸せでしたので、この後の身の処し方を案じておりましたが、「生きてさえいればまたここに帰ってくることもあるだろう。それまで気長に待とうという殊勝な者は、全員こちらにお仕えするがよい。」と仰って、上の者も下の者も皆西の対に参上させました。若君の乳母たち、花散里へも精神面だけでなく実際面にまで、気を配られないところはございません。

 尚侍の君こと朧月夜にも、相当な危険を冒してお便りをお遣わしになります。

「お問い合わせがありませんのも当然と知りながら、今まさに世を捨てんとするこの期に及んでは憂さも辛さも喩えようがございません。

逢いたくても逢えない時、涙の川に溺れておりました、あれこそが流浪の始まりだったのでしょう

そんな風に思い出してしまうことだけが、罪深いこの身の過ちだったのです。」

文を届ける道々も剣呑です、詳細は敢えて省かれました。女君も激しく胸を打たれ堪えに堪えておられますが、流れ落ちる涙はお袖だけでは到底足りません。

「涙川に浮かぶ泡沫の我が身、またの逢瀬を待たずしておそらく消えてなくなるでしょう……」

そう涙ながらに認められた筆遣いの素晴らしさ。もう一度だけ逢いたいという願いが叶わないのは残念ですけれど、よくよく考えれば御親族の厳しい目がございます、ご本人もさぞや気苦労が多いことでしょう、敢えてそのお気持ちはそっと胸にしまわれたのでした。

 いよいよ明日ご出発となりましたので、夕暮れ時、院のお墓参りに北山へ向かわれました。暁間近の月の出かかる刻限ですから、まず先に出家なされた中宮の許にお邪魔いたしました。御前近くの御簾のすぐ前に源氏の君のお座席を設え、直接お言葉をかけられます。ひたすら東宮の行く先を案じていると仰います。心の奥で秘密を共有されていらっしゃるお二人の会話は、何かにつけてしみじみと情感が増したことでしょう。

 柔和なところも気品漂うところも昔とお変わりありません、冷たいお仕打ちの一端でも訴えたいところではありますが、今更耳に入れたくないと仰るでしょう、ご自身もこの期に及んで心が掻き乱されることになろうとぐっと堪えられ、ただ「こんな思いがけない罪を蒙りましたのも、突き詰めて考えればすべてはあの一点から起こりましたこと、身も凍る思いがいたします。この身がどうなろうと構いはしません、東宮の御世が平穏無事でありさえすれば。」とだけ申し上げましたのもしごくごもっともなことでございます。宮も云うまでもなくすべてご承知の上ですから、心深く感じ入られ敢えてひと言も仰いません。大将源氏の君は、あらゆる想い出が押し寄せ万感胸に迫られて泣いておられます、そのお姿はたとえようもなく貴く美しいものでございました。「これから山に参りますが、お言付けはございますか。」と問いかけられますと、咄嗟にお言葉も見当たらず、こみ上げてくるものを鎮めておられるようです。

共に暮らした方はもうおらず生きている人は悲しい目に遭っているこの晩年、世を捨てたはずなのに泣いてばかりの日々です

 お二人の煩悶は察するに余りあります、想い出されることが多過ぎて、お返しの歌がすぐには出てきません。

院とのお別れで悲しい事は尽きたと思っていたのに、ここにきてまたこの世の辛苦が増すなんて……

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