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源氏物語 現代語訳 若紫その5

 しばらくしてお迎えの人達が到着し、平癒のお祝いを口々に申し述べ、宮中からも使者が遣わされてまいりました。僧都はめったにお目にかかれない果物を、わざわざ谷底まで降りていって掘り出し、しつらえて差し上げます。「年内は山を降りないと固い誓いを立てましたため、お見送りもできかねます。今となりましてはなまじな誓いだったとしか申せません。」などと申し上げ、御酒を献上いたします。「山水にすっかり魅入られてしまいましたが、お上がご心配遊ばされておられますのが申し訳なく、山を降りねばなりません。また改めてこの花が咲いおりますうちにやってまいります。

帰って宮人達に教えてあげよう、山桜が散る前にここに来て観るべきだと」

とお詠みになられるお姿はもちろん、声音までもが後光が射すばかりのまばゆさで、

優曇華の花をお持ちになっておられるような心地がいたします、山桜などには目移りもいたしません

そう申し上げましたら、源氏の君はにっこりされ、金光明経にありもます優曇華は三千年に一度開くとか、それだとちょっと待ちきれませんね、と軽口を仰います。御盃を頂戴した聖は、

閉じっぱなしの奥山の松の扉を珍しくも開けて、見たこともない花の顔を目にすることになりますなぁ

と感涙に咽びながらご尊顔を拝します。

 聖はお守りとして独鈷を差し上げます。それを目にされた僧都は、聖徳太子が百済より入手された金剛子の数珠で玉の飾りが施されたものを、かつてその国から入ってきた時の唐風の箱にお納めし、透かし模様の袋にお入れして五葉の松に結わえたもののほか、紺の瑠璃の壺などにお薬等をお入れし藤や桜に結び、里の人が喜びそうな贈り物を選りすぐってお贈りいたします。源氏の君は、まずは聖、続いてお経をあげてくれた法師たちへのお布施をはじめ、あらかじめご用意されておられた品々を京に取りに戻らせて、その辺の山の民にまでそれ相応の物を下されて、念入りにお経を読まれた後出立なさいました。

 奥に入られた僧都が、源氏の君のお言葉をお伝えいたしましたが、尼君は「何はともあれ、今はお返事のしようもありません。ただもし揺るぎないお気持ちがおありでしたら、四五年先でしたら考えようもありましょう。」と仰いますので、……だそうでございます、とそっくりそのまま申し上げましたところ、納得いかないと思われたようです。お便りは、僧都のところの小さな女童に託され、

夕暮れ時にちらりと可憐な花を目にしました、今朝は霞が立って立ち去り難い思いです

お返しに、

真実花の咲くあたりを立ち去り難く思われておられるのか、霞む空をしばらく眺めてみましょう

と優美な筆使いできわめて品よくさらさらと書かれておりました。

 御車の手筈が整い乗り込まれる段になって、左大臣より「何処へとお告げにもならずでお出掛けになられましたので……。」とお迎えの人達、お子様達が大勢いらっしゃいました。頭中将、左中弁、ほかのご子息様もいたくお慕いになり、「この度のような小旅行でしたら喜んでお供いたしましたのに!仲間外れになさるとは水くさいではありませんか!」と恨み言を申されて、「こうまで見応えのある花の木陰を見付けたからには、しばしここで憩わない帰ってしまう手はありませんよ。」そう仰います。岩に隠れた苔の上に並んでお座りになり、盃を傾けられます。落下する水の姿も味わい深い滝が目の前です。

 まず頭中将が懐に忍ばせておいた笛を取り出し、澄んだ音色で吹き始めました。続けて弟の弁の君が、扇で絶妙に拍子を取りつつ「豊浦の寺の西なるや」と催馬楽を歌います。お二人とも、抜きん出た方々なのは云うまでもありませんが、源氏の君が憂い顔で岩にもたれておられるお姿たるや、世にも稀なる戦慄するばかりの美しさですので、誰しも他に目移りするなぞあり得ませんでした。例の随身は篳篥を吹き、笙の笛を持たせている洒落者もおります。僧都は自ら琴を持ち出してきて、「どうか一手奏でていただき、同じことならば山の鳥たちを驚かせてはいただけませんでしょうか。」とたってのお願いを申し上げますと、「耐えがたいほど具合が悪いのですが……。」と洩らされながらも実際見苦しくない程度に掻き鳴らされて、皆々様が立ち上がられました。

 かえすがえすもお名残惜しいと、取るに足りない法師や童たちまでもが別れを惜しんで泣きじゃくります。ましてや奥においでのお歳を召した尼君たちは、未だかつてあのようなお美しい方を拝んだことがありませんでしたので、「とうていこの世のものとも思えませぬ」と口々に云い合っております。僧都は「なんたることか!いかなる因果であのような光輝くお方がこうも穢れ切った日の本のしかも末世に生まれ落ちてこられたのか、そう思うだに悲しくてやりきれない。」と仰って目頭を押さえられます。

 当の姫君はと申しますと、子供心になんて素敵な方!と思われたようで、「父宮さまより上なんじゃないかしらん」などと申されております。尼君が「ならあのお方のお子様になられては」と申し上げますと、可愛らしく頷き、そうなるといのになぁと夢見られておいでです。雛遊びをされても、絵をお描きになられても、「こちらが源氏の君」と創作されて、清らかな衣裳を纏わせては大切になさっておられます。

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