「市民性」と「オルタナティブ」のつながり〜オルタナティブ(代替案)という名詞を超えて〜
「こたえのないがっこう」がやっている「哲学登山vol8〜オルタナティブ〜」というプログラムに参加しています。
最近自分の中で、こどもの森の本質的な部分って、市民性教育とか、当事者主権の教育、子どもを中心とした教育、人間本来の自然な成長を大事にする教育といった言葉が近いという気づきを得ました。
そして「オルタナティブ教育」が流れに乗ってきた今、いろんな人がオルタナティブ教育を名乗って、いろんなオルタナティブを展開していくことになると思うのですが「そもそもオルタナティブ教育の源流ってどこにあるのだろう?」とか、「どんな背景でオルタナティブ教育が生まれたのだろう?」という問いを持って参加しています。
1回目は聖心女子大学の永田さんの記事やオルタナティブ教育の定義などを共有してもらい、今後はグルントヴィ、モンテッソーリ、レッジョエミリアから市民性教育を深めていくという、なんとも僕にとってタイムリーであるけど、一般的にはマニアックな会となっています。
いろいろ気づきはあるのですが、その中でも2つだけ自分が今まで知っていた言葉の概念が変わったものを紹介します。
「市民」とは何か?
こどもの森に来たときに、最初「なんで市民という言葉をつかうのだろう?」ということがよくわかっていませんでした。僕の中では単に「人」と読み替えて良いものだと思っていました。
市民(citizen)という言葉のニュアンスとしては、それぞれの農村から「都市(city)」に集まってきた人というイメージがあるみたいで、それぞれの生まれや育ちは関係なしに「あなたはここでどんなことをする?」というフラットな関係性を指し示す言葉のようです。
そして、あえてこの「市民」という言葉を使う背景には、「特定のあり方をしている人を市民ではないとして排除することが国民国家であるため」だということです。市民活動に従事できない人たちが市民じゃない人であり、歴史的には成人男性ではない、女性、こども、多様な性を持つ人などが市民ではないとされてきました。
国民国家の中で、無意識に起こってしまっている差別的意識。人間は権利の主体であるとしておきながら、誰が人間として定義されているのか。そのようなことを大事に見つめていくために「市民」という言葉を使っているのだと知りました。
「オルタナティブ教育では、人間とは何か?人間らしく育つとは何か?」をすごく考えると、今回の講師の桐田さんは話されていましたが、こどもの森の創設者のまーちゃんがよく引用していた「善く生きる」という言葉は、まさに「生のための学校」を意識するものだったのだなぁと自分の中でつながってきました。
「オルタナティブ」とは何か?
オルタナティブの意味を直訳の「代替案」くらいにしか思っていなかったのですが、永田さんのオルタナティブ教育の定義を読むと、オルタナティブと市民性の繋がりや価値が見えてくる感じがしました。
《オルタナティブ教育の6つの定義》
⑴公共性
公共的なものは権威のある人が決めるという意味での公共ではなく、私とあなたの間に公共があるという考え方。
⑵刷新性
メインストリームを問い直す姿勢。再構築する動き。
⑶相互補完性
メインストリームと対立するのではなく、相互に補完する。
⑷多様性
オルタナティブを名乗っていなくても、「どの時代にもどの地域にも見出せる」という意味で多様である。
⑸全体性
全ての人の「生」を尊重する。インクルーシブ、包括的。
⑹多元性
少数派の声、特別なニーズが尊重される
短めに書いたので、意味が伝わりにくいと思うのですが、この6つのオルタナティブ教育の定義は、そのまま「市民性とは何か?」の答えにしても良いのではと思うくらい、オルタナティブと市民性のつながりを感じました。
オルタナティブを単に「代替案」という名詞で捉えるのではなく、メインストリームを問い直す姿勢であり、自分たちなりに手探りに考えて再構築していく動きという「オルタナティブ性」みたいな感覚を大事にしたいなぁと思いました。
市民性、オルタナティブを包括する「生」の意味
今回の哲学登山では、「生を重視する教育の考え方を理解する」というテーマで、「生の多様性を市民の教育」や「市民としての子どもの生を見つめる」ということを考えていくのですが、「生」という概念が自分の中でまだ曖昧なので、市民性の上位概念にありそうな「生」という感覚をより自分の中に落とし込んでいきたいなぁと思いました。
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