見出し画像

千賀健史個展「まず、自分でやってみる。」中村史子×千賀健史トークイベント

BUGにて、2024/3/6(水)〜4/14(日)に開催された千賀健史個展「まず、自分でやってみる。」に際し、会期中の3/29(金)には関連イベントとして、中村史子さん(大阪中之島美術館主任学芸員)と千賀健史さんのトークを行いました。
本noteでは、アーカイブとしてその書き起こしを掲載します。Podcastのアー
カイブもあるので、音声で聞きたいという方はこちらからご確認ください。


トーク書き起こし

中村) こちらの展示を拝見して最初に感じたことですが、特殊詐欺という他の作家が扱わないテーマを、東京の中心地、しかもリクルートさんという企業のスペースでやっている企画自体がとてもチャレンジングで面白いなと思いました。また、企画のチャレンジ性に応えるように、千賀さんもいろいろな素材や技法、メディアを用いた多種多様な表現方法に挑戦されており、二重の意味でチャレンジングな展覧会ですね。

まずは展覧会の概要について、伺えればと思います。特殊詐欺というテーマには以前から取り組まれていたということですが、千賀さんがこのテーマを選んだきっかけや、今回展示するまでのプロセスについてお聞かせいただけますか?

千賀) このテーマは2019年から取り組んでいます。きっかけは、母親が特殊詐欺のターゲットにされていると知ったことです。ある日警察から、「最近捕まえた詐欺グループが持っていたリストに、あなたの名前が載っていましたよ」と母親に連絡が入りました。調べていくと、意外と他にも身近にターゲットにされている人がいて…。他にも知り合いづてで、 そういえば、あいつ闇バイトやっていたらしいよ〜 みたいな話を聞くようなこともあって。その前までは、 犯罪は自分とは遠いところにあって、明確な線引きがあり、常に自分は外側からそれを見て何か言う立場にある と思っていたんです。でも、 実は境界は曖昧で、近いところに存在しているのではないか と思い始め、調べるようになりました。

調べていくと、他の犯罪とは異なる特殊詐欺の側面が見えてきました。例えば、生活が苦しいから 本当に闇バイトでもしないと生きていけないよ〜 とか冗談でも言えるものになっている。闇バイトとして加担する部分は、犯罪全体の中では本当に一部で、それをやること自体はそんなに心理的ハードルが高くないように作られているんです。そういうシステムの面が非常に興味深く、同時に、社会の中にあるさまざまなものと通じているような気がしました。それで、加害者の方法論や用いている技法などを実際に取り入れながら制作してきました。

中村) なるほど。その調査の過程では、新聞などの報道だけではなく、被害に遭われた方、あるいはそういう特殊詐欺に加担してしまった方、双方の調査をされたんですか?

千賀) そうですね。実際に話を聞けた人もいますし、特殊詐欺の組織にいた人が書かれた自伝とかルポなども片っ端から読みました。そのうち、 実際の場所はどういうところなんだろう? という気持ちが出てきて、現場がについて調べるんですが、もちろんその情報は簡単には手に入りません。なので、ニュースで一瞬だけ流れる建物を見て、グーグルマップなどを使いながら調べ上げました。

中村) ニュースで、“闇バイトの事務所があったとされるビル”みたいに一瞬だけ流れる映像を見て、一生懸命調べるんですね。
千賀 はい(笑)。窓などの映像から、ビルの階数を推測したり、“◯◯区のホテル”という情報から全てのホテルを検索して同じ外壁を探したりして、実際に同じところを借りました。

中村) 部屋を借りるんですね、すごいですね。

千賀) そうなんです。犯罪現場の瞬間は撮れないけれど、その中でも何かしらリアリティのあるものを見せたいと考え、実際に現場だった場所を借り、押収品リストを調べ、それと同じものを中古市場で買い集め、その場所に持ち込むということをしました。そこで加害者と同じ動き、つまり、電話をかける、マニュアルを読み上げる、メモを取るということをしていった結果、そこに表れた痕跡を撮っています。本当に使われたかもしれない部屋や物と、加害者と同じ言動を取った後の痕跡は、虚実が入り混じった状態に感じられました。

中村) なるほど。実際に特殊作業をする側の行為をなぞるということですが、あの辺りにあるいろいろな…何でしょう?道具などを撮った写真作品(会場向かって左壁面の《Eco system》等)がありますが、あの道具などは実際にその特殊詐欺の人たちが使ったというものを、自分でもう一度手に入れて撮影したものですか?

千賀) ダイヤグラムの作品《Eco system》は基本的にそうです。アクリル額装されている作品「FILE」シリーズは、全然関係ないものもあります。例えばよく、 闇バイトに加担するような人たちは、お金に困った際、競馬などのギャンブルに走りやすい みたいな言説があります。なので、作品内にも馬券を入れていて、直接的には関係ないものでも、記号的に読み取っていった時に、 これとこれがあるということは、そういう層の人たちで加害者かもしれない と想像してしまう、といったことをやってみました。

中村) なるほど。《Eco system》は、実際に犯罪で使われたかもしれない空間にて、そこで行われたことをもう一度演じ、それを撮影しているということで、リアルに自分から接近していくような感じですよね。でも他の作品、「FILE」シリーズでは、また別のアプローチをされているんですね。

千賀) はい。詐欺師がつく嘘というものは、本当のことと荒唐無稽な嘘が混ざっているんですが、それを受け取った側の中で記憶と繋げ、リアルなストーリーになっていく構造です。だから僕も、それと同じようなことをこの中でしようと考えました。

中村) うん、うん。今ちょうど “混ざる”という言葉が出ましたが、おそらくこの展覧会で一番ぱっと目に飛び込んでくるイメージが、「まず、自分でやってみる。」シリーズなど人間のポートレートが混ざり合ったような写真ですよね。また、それをレジンで固めたものや、壁の上部にはコラージュのようにいくつかの顔をくっつけて一つの人間の肖像のようにした作品もあります。作品解説によると、加害者と被害者双方の顔を想像上で一度作り、またそれを混ぜ合わせたということでしょうか?

千賀) そうですね。加害者と被害者像を模したものが、同じ画面で混ざっているものもあれば混ざってないものもあるんですが、本当の彼ら/彼女らの姿は使っていません。

中村) なるほど。新聞報道などに出ているような顔写真は使わずに、全部作ったものなんですね?

千賀) はい。僕の顔を「Face App」というアプリを使って、高齢女性の姿にし、今度はそれを若い男性にして…というような操作により、自分の顔からさまざまな人の姿を作りました。

中村) ポートレートの写真作品に引きつけて話を進めると、水溶紙にプリントされているのが一つの大きな特徴かなと思います。改めて、水溶紙を選択された理由を教えてもらえますか?

千賀) 水溶紙は、特殊詐欺グループが証拠隠滅のために使用する紙です。シュレッダーで裁断する、というのが一般的に紙を破壊する行為だと思いますが、それだと警察が繋いでしまう。なので、完全に証拠を隠滅する方法として、水溶紙が使われます。実際に自分でテストしてみたところ、水にドボンとつけた瞬間にふわっと消えました。一方で、本当になくなっているのか?と思うところもあって…。それならこの溶けたものを乾かすと、一体何が出てくるのかな?と思い、乾燥させてみたものがそれらの作品です。

乾かすと、最初の紙の状態以上にカチカチの硬い石みたいな触り心地になり、それはもう二度と元には戻りません。この硬くなった状態を見て、この犯罪が被害者はもちろん、犯罪に加担してしまった人たちの人生においても大きな影響を残すことに思いを馳せていました。

中村) このゴツゴツした手触り自体が、両者の中に残るしこりやトラウマのようなものを表現しているということなんですね。
基本的な質問になりますが、加害者が特殊詐欺を行う際、水溶紙には何を書いているんですか?

千賀) グループによるとは思うんですが、基本的にはマニュアルとか、電話番号とか、振り込み先の口座とか、彼らが残したくないもの。自分たちや組織に関係するような情報だったり、個人の情報が書かれているはずです。そういったものを視覚に置き換えた場合、顔になるんじゃないかと考え、「まず、自分でやってみる。」シリーズは顔で構成しました。

中村) 顔の作品が設置されている下の壁には、文字のようなものが少し残っています。これは顔の作品から溶け出したわけではなく、また別の水溶紙に刷ったのでしょうか?

千賀) はい、これは名前ですね。

中村) 上から順にそれぞれの名前なのかな?

千賀) そういうイメージで作っています。そうやって想像を働かせてもらうことを狙いとしています。顔の作品がない場所にも名前は存在しているので、そのことから、溶けてしまってここには存在しないどこかの誰かについても考えてもらえるといいな、なんて思いで作りました。

中村) この作品は“情報をめぐる物質とデータの二元論” を超えるところがありますね。素人的には、今はみんなスマートフォンでやり取りをするから、そちらのデータにやり取りの履歴が残って証拠になるのでは?と思ってしまいます。けれども、詐欺グループはわざわざこういう紙を用意して溶かすことで証拠を隠滅しようと考えている。その心理自体に、反転した意味ですが “物への信頼“ がある気がするんですね。つまり、“物質さえなくなれば情報もなくなる” という風に信じられているんだな、と。

千賀) 一時期、テレグラムというような暗号通信アプリが出てきて、未だに使われることもありますが、警察が「テレグラムは復活させられます」と言っていて。情報技術では復元できちゃうんですよ。そんな中で、物体を消滅させられたらどうすることもできないという話は、改めて物が復活してきたようで、僕も興味深く感じています。

中村) そうですよね。目の前に情報が書かれた紙が残っていると嫌で、わざわざ水溶紙を使って溶かす。水用紙の購入履歴自体がデータで残っていると、かえって足がつきそうな感じすらしますけど(笑)。

千賀) それで言うと、僕はもう500枚、600枚くらい買っているので、だいぶ怪しい奴ですよね(笑)。

中村) 話を戻すと、“物体かデータか”、みたいなことは今いろいろな分野でホットな話題だと思います。私が勤めている美術館の世界では、作品やその情報の保存が、ある種の使命なんですよね。それで一時期は、データに残せば一種のレスキューになる、という風に信じられていたし、実際その対応も進めています。しかし、データの保管やそれが安全に使える期限は全く未知数なんですよ。写真でも「100年間残る」とキャッチコピーで言われていたものが、時が経つと色が変わってしまっているように、今、美術館が一生懸命残しているデータも、ある機材を使えば「何十年も持ちます」と当初聞いていたのに、実は「ずっと温度や湿度が一定で、全く変わらない最高の空間なら何十年もちます」という意味だったりもします。日々、どのような形式で遺すべきか悩んでいる一人として、特殊詐欺に関わる人たちへの共感ではないですが、彼らにとっても情報の管理や削除をどうコントロールするかが課題になっているんだな、と思いました。

千賀) 本当にそうですね。僕自身、詐欺グループや加担した人、被害者のことを調べれば調べるほど、「きっとこういう人だろう」、「こういうものだよね」と最初は思っていたことが、だんだん違うとわかってきて。そのうち、「意外と同じようなことを考えているんだな」とか「同じようなことをしているんだな」と思うようになりました。物とデータの話もそうですけど、同じ今を生きている人間として、社会的な影響を受けながら行動していることを強く感じます。

中村) 今回、加害側について深くリサーチされていましたが、その結果として、加害者を強く糾弾する等の加害者への処罰感情は比較的薄く、前面に迫ってこない展示になっているように思いました。もちろん「特殊詐欺はダメなことだ」という考えがベースにありますが。

千賀) もちろんやったことはやったこととして、加害者の方は向き合っていかなければいけないものだとは思っていますが、「その行動を自分が叩けるのか?」、「いや、違うかもしれない」と考えれば考えるほど思うようになり・・・。だから鑑賞者の皆さんにも、加害者を罰するということではなく、自分の責任がある部分にも目を向けてもらえたらいいな、と思っています。

中村) そうですよね。どうしても一般的な報道やニュースでは、被害者は被害者、加害者は加害者というように明確化されています。加害については法的に裁かれるべきですが、なかなかそこだけでは見えてこないそれぞれのバックグラウンドや状況は抜け落ちてしまいますよね。そういった面は、やはりこういう美術などの表現分野が担うのが得意な部分かなと思います。

この作品は、千賀さん自身の顔と加害をした人、被害に遭われた人、全ての顔がある種混ざっていることから、“自分はどの立場にもなり得る”というところを非常に鮮やかに表現されていますね。

千賀) やはり加害者も被害者も、その周りにいる人も、一緒に生きていかなければいけないというか、社会の中で一緒に生きているじゃないですか。そういった時に、「この人は排除していこう」みたいなことばかりをやっていては、いずれ成り立たなくなっていきますし、「果たしてそれで良いのだろうか?」という考えが疑問としてあって。なので、すごろくも作ったんです。こういう展示においてはテキストも重要ですが、今回は壁全面に出すことは避けて、下に置きました。知るためのテキストというよりも、体験するため、わかるためのテキストみたいな形式で。

それこそ加害者からお話を聞くと、罪に向き合えていない方も多いようなんです。というのも、「先輩から誘われたから、断れなかったんです」とか「家賃も払えない中、どうすりゃいいんだ?」といろいろと言える状況でもあって。だから、「自分は悪くないんだ」という考えに繋がるんですが、一方でそういった人を外側の立場から見ると、「何を言っているんですか!」と簡単に言えてしまうわけですよね。「そんな言い訳をしていないで、ちゃんと自分がやったことに対して向き合いなさい」とか。でもほとんどの人間は、どうしても言い訳してしまうし、やったことと面と向かって向き合うことは、なかなか難しいのが現実です。そして実は、そういった言い訳を作っているのは社会であったり、加害した人の外の部分だったりもします。だから、その辺を体験してほしいということで、「実際に触ってください」、「動かしてください」という指令の含まれるすごろくを用意しました。

中村) すごろく内のテキストに、「壁にある作品を入れ替えてください」といった指示があるから、指定の壁内に設置された作品を触ることができる、ということですよね。これはもしかしたら、千賀さん自身は考えていなかった効果かもしれませんが、その指示自体が「展示されている作品に触ることが出来る」という“自由”のように見せかけて、実はかなり“限定”されている点が非常に面白いです。実際の加害者たちも、「お金を楽していっぱい稼いで、自由や希望が手に入る」と謳われているから詐欺に加担するわけですが、実際、詐欺のプロセスはかなり厳密に決められていて、行動の自由はないんですよね。途中で、上の指示を断ったら何をされるかわからない。こうした退路を断たれた状況で行動を選ばざるを得ないところと、今回の「作品を触ってください」という指示がその点で重なります。表向きに謳われる自由さがある反面、実は既にリミットがついているという関係が面白いと思いました。

また別の作品についてですが、あちらの作品《20190329》は、タイで特殊詐欺を行っていた人たちのパソコンのモニター画面に、実家の近くの地図があったことが原点になっているという。衝撃的なことですよね。

千賀) 全然予期してなかったんですよ。「タイで20人くらいの特殊詐欺グループが逮捕された」というニュースがテレビで流れて、初めてそういうニュースを見たので、すごいなと思って調べていたんです。日本の報道はモザイクがかかっているので現地報道を見ようと思って、インターネットでいろいろと調べて、現地のニュース番組を見ていたら、全部を写しているんですよね。テーブルに置いてあるメモ、電話番号、パソコンにはGoogleマップで僕の実家の辺りの住所が出ていたので、すごくびっくりして。

そこにいる人たちの姿も写っているんですが、自分が想像していたような、いわゆる悪い人とはちょっと違う。意外とその辺にいるお兄さんのようにも見えてきました。それまでは全く姿が見えないが故に想像が働きすぎて、「きっと自分とは違う人たちだ」と記号で思い込んでいました。でも映像を見た瞬間、線引きが崩れていく感じでした。

中村) タイの犯罪報道で自分の実家の近くが映る、というのも驚きですし、そこで登場した犯罪グループのアジトみたいなものがいわゆるドラマや映画で見るような「悪の巣窟」ではなく、ちょっとしたオフィスのような雰囲気だったということも驚きですよね。その二つのショックが今回の作品の規定になっているのでしょうか。

千賀) そうですね。それこそ自分が大学生だった時も日給2万円の交通量調査とか高額バイトはいっぱいあったんですよ。当時の高額バイトや裏バイトとされているものは、「少しハードだけど、収入が良い」みたいなものが一般的だったんですが、きっと今だとそういうものの中に闇バイトも紛れ込んでいると思うんですね。明らかにそういうものだとわかるのもありますが、ごまかして誘い込んでしまうものもあるので、僕が今大学生だったとして、それに全く引っかからないという自信はないかな・・・。だからこそ、闇バイトをしてしまった人をどこまで断罪することができるのだろうか?と。

中村) ここでまた少し話を抽象的にすると、犯罪をする側、あるいはそれを客観的に見て「自分は全く関係ないです」と思っている側、両方の責任と想像力をどの時点で囲い込むか、というところが肝だと思うんですよね。多くの人が闇バイトに加担してしまうのは、自分が一体どういう大きな犯罪の中で、どんなポジションにいて、自分の行動がその後どんな悪い影響を与えるのか?というところの想像の芽が最初から意図的に摘まれていて、単なる「日当◯◯円のアルバイトです」と見せられているからでしょう。

作品集で出てきた人たちも「犯罪ではなくて仕事です」みたいなことを言っていて、自分がまさか国際犯罪の末端を担っている、という意識を持たずにやっている。自分の想像力を自分で制限できるというのか、罪悪感を抱かないで済むように制限してもらえるというのか。

千賀) きっと心の中では、わかっているんですよね。でもそう思いたくない時に、そう思わなくて済むための材料が用意されている。「年金格差がさあ」とかもそうですし、彼らだけが用意しているものだけでなく、社会の中で作り上げられてきたものが関係してきていて。だからやはり、外にいる人間も想像力を働かせていくと「関係ない」と言い切れるのか?という話になってくるんですよね。

前回のトークでは永井玲衣さんとお話をさせていただいたのですが、彼女が好きな短歌として、岡野大嗣さんの「実行犯が億人組でそのうちのひとりが僕である可能性」という内容をご紹介いただきました。1億人組の犯罪グループがあると考えた時に、きっと自分もその中に入っているということですよね。実際に捕まったのは10人組のグループであったとしても、億人組であるという事実が変わらずあると認識するためには、ちょっと引いた目線でこの問題を見つつ、考えていくといいのかなと思っています。

中村) 先ほど、“責任”という言葉も出ましたが、この展覧会を見た方や作品集を見た方に対して、「自分の責任がある部分にも目を向けてもらえたらいい」というのは、具体的にどういうことを期待されているんですか?

千賀) 僕は「これをやってください」という風には、言わないようにしています。それが答えになってしまうことをできれば避けたいと考えていて。その犯罪が「遠くない」ことだと感じたときに、「何ができるのか?」とそれぞれが考え、取り組んでほしいというか。

中村) 犯罪をしてしまう人、あるいはその犯罪に遭いそうな人に対して、「自分とは関係ない」とシャットダウンしない、ということですかね?

千賀) そうですね。あと、実際に被害者の9割くらいは、「自分が被害者になるわけがない」と思っていた人なんですね。一方で、こちらは統計を取っているわけではないですが、犯罪者になってしまった人も、「自分がそうなるとは思っていなかった」だろうと思うんですね。「自分はわかってる」と思っている状況が一番危ないのでは?と考えているので、「わかっていないかもしれない」というようなものを抱えてもらえるといいのかな。ちょっと意地悪な感じでもありますけど。

中村) 少しまた違う視点からお話をしますと、おそらくそのような社会問題を扱う時には、まっすぐにその問題に向き合うのに適した表現方法はたくさんあると思うんですね。でもそうではなく、あえて自分とそういう立場にある方の間の境界線をなくすような、ある種、鑑賞者に向けて「自分で考えなさい」と要求する展示になっている気がします。そういう展示にしている目的は何でしょうか? 

千賀) このトピックは、エンターテイメントやジャーナリズムなどいろいろなところで扱われていると思うんですね。「この犯罪の秘密を暴く」とか、「加害者とは、こういうものだ」といったことは、ニュースやジャーナリズムがやってくれると思うので、僕はそうではないところを行きたい。かつ自分自身が、加害側の人や被害側の人にいろいろ話を聞いていく中で、言葉は難しいですが、どちらにもある種共感する面、言っていることはわかる、という点がいろいろとありました。その結果、自分なりの考えや結論があるにはあるんですが、それを示すよりも、こういう人に会って、こういうことを聞いて、こういうものを見て、という過程をみなさんにも見てもらい、「で、どう考えていきますか?」と訊きたい。そういう場を作ることが、自分の役割なのかな?と思っています。

実際にBUGでは、カフェ目当てで来た人や旅行帰りで地方から来ている人など、いわゆる僕の展示を目的とはしていない人たちが会場に入ってきて、床のすごろくをやり、意外と長居してくれています。そこで直接、「どういうことを感じましたか?」と訊いたり、アンケートに答えてもらったりしていると、けっこう面白い話が聞けるんですよね。僕自身、「いろいろな人がこういった展示に触れて、何を考えるのか?」ということを知りたいので、このようなタイプの展示や作品を作っています。

中村) そうですよね。長居する方が多いとのことですが、本当に全部を読み解くのに時間がかかるというか、ちょっと見て「あー、綺麗だな」では帰らせないぞ、という気迫を感じる展示になっていると思います。
これは意地悪な質問かもしれないんですが、犯罪などをテーマにしていても、作品に仕上げてしまうことで、ある種とても美しいものに見える部分があります。「実際に被害に遭われた方がいるのに、美的なものとして表現しているのではないのか」という批判もあり得ると思いますが、そういったことについてはどのように考えてらっしゃいますか? 

千賀) 僕は社会的なテーマを扱うことが多いので、そこはやはり常に考えるところです。過剰に美しく見せるような撮影は、基本的には避けています。ただ、例えばこれまで顔写真を溶かすシリーズなんかはモノクロで表現することで、美的な印象よりも事件性を匂わせるものにしていたんですが、今回はあえてカラフルにしました。それはある程度ビジュアル的な美しさがないと、そこに人を引っ張ってくる力が足りないですし、自分自身の興味関心としてもある程度追求していきたいという理由があります。また、今回は特にカフェも併設されていて、外からもよく見える場所なので、「あれはなんだろう?」と目を引くようにしました。常にバランスは模索しているんですが、やはり会場の中に来てもらわないとどうしようもないと考えています。

加えて、実際に特殊詐欺に関与した人の像を使ってしまうと、そこはさらに難しくなると思うんですが、この作品は自分の像であるということが自身を納得させる一つのポイントでもあります。あと、こういう事件の話を聞く時に、それをどこか楽しむように見てしまうところが、誰しも少しはあると思うんですよね。どうしても感情的な部分で消費してしまったり、いくらその人が悪い人でも「かっこいい人だな」と処理してしまったり。そういう意味でも、問題への認識を持っていても、作品の色や抽象的なイメージ、全体の雰囲気から、どうしてもそれが「良い色だな」とか「綺麗だな」と感じることは切り離せない。その状態も見せたいと考えています。

中村) そうですね。今、千賀さんのお話の中ですごく面白い指摘というか、大事な話があったと思います。私たちは、「消費してはだめだ」、「美的に受け取ってはだめだ」と思っていても、絶対にそこからは逃れられないんですよね。例えば悲惨な事件や事故、災害があった時に、それが非常に痛ましいから全く触れない、そういう場所に一切訪れないよりも、たとえ消費する面があったとしても、それに見たり語ったりする方が、ベストでなくてもベターなんでしょうね。

千賀) そうですよね。それが語られたり、何かの形で残されて、誰かに伝わっていかないと別の考えが生まれることもないと思うので。

中村) そうですね。だから「犯罪は悪いことだから、展示で触れてはいけない」ではなく、そこに伴うある種の両義性を見た上で触れていく、ということですよね。

千賀) はい、そうです。

中村) また少し、話を広げますね。今日この会場へ来られた方々の中には、今回のテーマに関心があるだけでなく、現在進行形で頑張っている写真家や、写真表現に関心がある方も多いのではないのかと思います。私自身の最近の関心で言うと、「捨てるための写真」や「消すための写真」といった、用がなくなったらゴミになる写真に興味があります。もともと写真の歴史を紐解いていくと、「何かを残したい、留めたい、ずっと記録したい」ということに比重があり、「写真=残すもの」という前提が私たちの中にあったと思うんです。

でも、私自身スマートフォンを使っていますが、「ずっと残すぞ」という考えは全くなく、バスや電車の時刻表をスマートフォンで撮って、乗った後にはもう画像は要らないから、とデータ容量を増やすために捨てることがあります。後は、Amazonの宅配便が届いたとき「届きました」というメッセージと一緒に送られてくる玄関先の写真とか。ああいうものは、瞬間的には記録や証拠として使いますが、その後は不用となり捨てられることが前提の写真だと思います。今回の千賀さんの作品も、まさに水溶紙という消える紙を使い、イメージが消えることを作品の中に取り込まれていると思います。そこで、写真を残すことと捨ててしまうことといった二つのベクトルについて、お考えがあったら教えてください。

千賀) そうですね。今回の展示は特にその辺が顕著なんですが、いま壁にかかっている作品は、水をかけたら全部消えてしまうんですよね(笑)。そういうものが今を象徴するところでもあるのかな。以前、知人が編集アプリの“消しゴム機能“について熱弁していたんです。今は写真から何かを消すことが当たり前のようになっていて、そこに対する戸惑いもない人が多い。イメージを捨てる、ということに関しても、溶けることを想定して作品を作っているので、ある種、元のイメージは必要ではなく、他のものでもほとんど変わらない。

中村) わざわざ顔ではなく、適当に選んだデータやイメージでも、水に触れると結局はああいうものになるだろう、と。

千賀) それでも顔を使うんですが(笑)。イメージとして、そこには既に見えなかったり、なかったりしても、何を捨てたのか?何を消したのか?というところにすごく意味があると考えています。それはもう見えなくなっているとしても、“見えてくる”こということが面白いのでは?と思っていますね。

中村) それは、千賀さんがお一人で全ての制作工程をやっているから言えることかもしれない。先ほどの詐欺グループの話に戻すと、詐欺のプロセスを細切れにしていくじゃないですか。電話する人、封筒を運ぶ人、というように委託業務みたいにやってしまうと全体が見えないし、全体に対しての当事者性を感じられず、責任感も発生しないと思うんですね。でも、千賀さんのような表現者や写真家の方々の面白いところは、自分で被写体として撮るべきものを再現するところから始め、イメージも自分で作り、紙を貼り、と全部のプロセスを自分の身体と時間を使ってやる。だから、結果的にぐちゃぐちゃに混ぜてしまったとしても、元々がどんな顔で、どんなイメージだろうが、全てのアウトプットに対して自分が関わっているから、自分の責任が発生していて、一つの経験として完遂されているんですよね。そこがやはり、表現者の一番尊くて大事なところだな、と思います。

千賀) そうですね。まず、自分でやってみる。

中村) そうですね!「まず、自分でやってみる。」というまさかのタイトル回収になってしまいましたが(笑)。このタイトル自体も、作品が特殊詐欺をテーマにしていると知らずに見ると、非常にポジティブで、「みんなで頑張ろう」といったキャッチコピーに感じられますよね。でも、実はその言葉が人を苦しめているというか、抑圧している側面があるということなんですね。

千賀) 本当にこの「まず、自分でやってみる。」というのは、自分も作家として大事にしていることですし、多分、みんなもポジティブなイメージを抱く言葉だと思うんですよね。仕事でも、制作でも、「まずはやってみよう」みたいな。やはり日本人は共助よりも、「自分で何とかしないと社会のお荷物になってしまう…」というような強迫観念を抱えていると思うので、この言葉はポジティブである一方、強い呪いとして苦しめてきたり、行動を制限したりする言葉でもあるのではないかと。

中村) はい。言われてみると自助努力を強制されるような言葉ですし、私も含めて、自助努力を多くの人が内面化してしまっていますよね。

千賀) 全部が全部そうではありませんが、「SNSで高額のバイトを探してみよう」という行動もこの言葉と全く無関係だとは言えないですし、被害に遭った人も、誰かに相談するよりも前に、「とりあえず自分で何とかしないと」というようになってしまうことがあります。このように一つの言葉に両面性があるように、加害者も被害者も全然違う人も、簡単に「この人はこうだよ」とは言えない両面性がある。そういったことを、この作品だったり展示だったりを通じて表現できたらな、と思っています。

中村) いろいろなポジションにいる方を、実は同じように縛って抑圧しているのが「まずは自分でやってみよう」というような言葉である、というところですね。その一方で、やはり千賀さんが写真家として、“まずは自分で全部やる”というのは素晴らしいな、と感じています。

千賀) ありがとうございます。そう言ってもらえると、いろいろやってきてよかったと思います。


質疑応答タイム

スタッフ) ここからは質疑応答の時間です。参加者の方から質問をいただく前に、私からも一点質問させてください。今まで写真を軸に話が進んできたと思うんですが、改めて「写真とは何か?」ということをお伺いしたいです。これまで会場にいらした鑑賞者の方々から、「この絵、すごく良いですね」という声をいただくこともありました。一方で、千賀さんからは、「ここにある作品はすべて写真です」と伺っていて。写真を写真たらしめる要素や定義などについて、お伺いしたいです。

中村) 千賀さんとしては、「これは素敵な抽象画ですね」と言われると、やはり「写真です」と主張したくなりますか? 

千賀) いや、「そう思いますよね」というところをある種狙っている作品でもあるので、「そう思いましたよね。でも実は写真なんですよ」とお伝えしています(笑)。

写真とは何でしょうね?「写真とは◯◯である」というものをみんなそれぞれ抱えていて、さまざまな枠が用意されていると思うんですが、個人的にはもっと広いところに対しても、「写真だ」と言えるものはあると思います。今回も、カメラをまったく使っていない作品や、ディティールを見せない、平滑性がない作品を用意しています。いずれにしても、「作者がそれをどう認識しているのか?」というところにあるのではないでしょうか。

中村) そうですね。おそらく写真というものは技術ではくくれないと思うんですね。フィルムも使わずに太陽光で直に焼き付けるような非常に原始的な写真もありますが、一定の年代の方々にとってはフィルムがあって、カメラがあって、暗室作業があって…というようなものが本来の写真だ、と考えていらっしゃる。でも、ここへ訪れる多くの方は、スマートフォンやデジタルの写真が前提になっていると思います。モニターのスクリーンショットやダウンロードしたデータも“写真”と呼ぶので、技術論的にはもう「写真とはこういう技術です」とは言えない。その上で私たちが、“写真”という言葉を使うのは、やはりそれがある種の真実性や記録性を担保するものと認識しているからだと思います。なので、その言葉を使う側の人間が「写真という言葉へ何を期待して、何を見出したいのか」というところが大事なのかな、と。

スタッフ) ありがとうございます。では他にご質問がある方はどうぞ。

参加者①) 今回の展示の前にも、特殊詐欺シリーズの作品を何回か展示されていると思いますが、その違いやアップデート点を教えてください。

千賀) このトピックの展示をするのは、4回目くらいですね。今までと違う点は、テキストを用意しないところ。なるべく見る人に委ねたくて、記号的で、人によってはすごくランダムに見えてしまうような、「ここと、ここと、ここはイメージの繋がりがあるのかな?」という見せ方を選択しています。「ここら辺は関係性が薄そうだけど、あっちは…」という風にカテゴライズしていく行為も、やはり僕らが日頃から意識せずにやっていることなので、「鑑賞者がこの展示写真をどうトリミングするのか?」ということを意識して展示を作りました。後は、床にあるすごろくが大きな違いですね。

中村) そうですね。このすごろくも本展の大きな特徴になっていますね。実際、すごろくをさせる展示は私も見たことがないので。

千賀) そうですね。しかも、始まりもなければゴールもなくて、ぐるぐる回ってしまうかたちになっていて。こういうものを大きく用意することで、カフェに来ている人たちや建物の外にいる人たちを少しでもこちら誘い込みたいと考えました。なんとなく足を踏み入れて、ふと下を見たらマスの上に自分は立っていて。そうした落差みたいなところから、鑑賞者の関心を奥へ奥へと引っ張ることはできないだろうか?と考えながら、システム作りを意識しました。

中村) ニュートラルな気持ちで会場に入ってきた、鑑賞者ですらないかもしれないカフェの利用者が、気づいたらこのすごろくのループに入っているという。

スタッフ) ありがとうございます。それでは、次の方質問をどうぞ 

参加者②) まずは、千賀さんのこの作品にすごく感謝しているというところをお伝えしたいです。特殊詐欺ではないですが、年末、実家に強盗の下調べの電話がかかってきました。その時は偶然僕が電話に出たので対応できたんですが、やはり相手は徹頭徹尾やり切るんですよね。電話が切れる直前まで親切を装う。虚実入り混じった話をして、タンス預金があるかどうかを調べようとする。ニュースで似たような話は何回も聞いていましたが、やはり他人事みたいな感じだったんですね。でも、何年か前から千賀さんのこのシリーズを見ていて、多分どこかでこのトピックへの実感が自分の中に植えついていたんだなと思って…。中村さんから「こういうテーマの作品を綺麗に見せることをどう思っているか?」というお話がありましたが、自身の体験から話すと、「美しいという感覚と、その問題への意識が一緒になっていたからこそ実感できたのかな?」と思います。例えば情報を提示されるだけであれば、「他人事であり、自分とは関係のないことだ」という風に考えていたのかもしれません。

その上で、千賀さんが特殊詐欺について長く調べた中で、「自分がもし悪い人間だったら、いずれこういうことをするのでは?」とか「未来には、こういう犯罪が出てくるかもしれない」と考えることがあれば教えてください。そういうものが特になければ、調べた上で「これはよく考えてあるな」と思った手口を教えていただきたいです。

千賀) 最近、自分でも気をつけないといけないなと思っているのは、「◯◯に当選しました」という詐欺です。例えば、本物を忠実に再現したスポーツくじのウェブサイトなどで、実際に購入できて、口座を登録できるもの。その後、当選のお知らせが来て、お金が振り込まれるというシステムが危険かなと。自分が被害者になってしまう詐欺ではなく、加害者にされてしまう詐欺ということです。

あとは、SNSのDMで「10万円が当選しました」といった連絡が来るものと同じです。「もしかしたら10万円がもらえるのでは…」と思って返信すると、「口座を教えてください」と連絡が来るんです。それで口座を教えると、本当にお金が振り込まれる。ただ、その金額がなぜか100万とか、想定より多い額で振り込まれるんです。するとその後に、「間違って予定とは異なる金額を入金してしまいました。申し訳ないですが、返金していただけますか?その代わりに当初の当選額は10万円でしたが、20万渡します。残りの分だけ返金してください」と言われる。このパターンでは、自分の口座が特殊詐欺の被害者が振り込む口座として使われるんですよ。当選のお知らせを受けた本人はそれを知らずに、その被害金をどこか別の口座に振り込んでしまうという仕組みです。しばらくしたら、警察が来て「あなたは特殊詐欺に携わりましたね」と言われて、捕まってしまうということが実際に起きていて。この場合は、最初のDMに乗っからなければ大丈夫ですが、今後、Webサイトだったりが巧妙に模された状況で、自分で口座を登録して、クジを買うなり、オンラインカジノをプレイするなりして実際にお金が入金されてしまうともうわからない。

中村) まさにプロセスが分断されすぎてしまったせいで、自分の口座に振り込まれたお金がどこから来てどこへ行くのか見えないんですよね。

質問者の方もお話しされていたように、基本的に特殊詐欺をしようとする人たちはみんなものすごく丁寧で「あなたのためを思っています」とか「リスクを避けるために、こうした方がいいですよ」と話しかけてくる。特殊詐欺をしようとしている人たちこそが、一番セキュリティ管理にも長けた語り口で、丁寧に相手のことを親身になって考えてくれている風に見える、というところが恐ろしいですね。けれども、これをもう少し広げて考えると、そういうのは社会のあちこちにも溢れていますよね。「安全だからだからこうしたらいい」とか「あなたのためを思って言っているんだから、こうしなさい」といったことは無数に言われていて、それは暴力的に「やれ」と言われるよりもずっとソフトだけど、かなり相手の奥深くに内面化されて、自分たちの行動を制限したり、抑圧したりしているのではないでしょうか。

千賀) 本当にそうですね。

スタッフ) ありがとうございます。次の方質問をどうぞ。

参加者③) 先ほど“消える”とか“残す”という言葉が出たので、それに関連してお伺いしたいです。展覧会では、実際に会期中に展示を見に来た人しか、ある意味本当の意味での体験はできていないと思うんです。今日のトークも録画されていますが、実際の場所に立つことや、そこで見ることとはまた少し違うのかなと思っています。私は千賀さんの個展を拝見するのは2回目ですが、前回も本をしっかりと作っていらっしゃいましたよね。そのように本として残すことと、このような会場を使って空間として作ること。千賀さんにとってその二つにおいて大きく違うことや、似ていると思われることを伺いたいです。

千賀) ありがとうございます。いまお話いただいたように、展覧会は消えていくもので、本は残る、というところがまず大きく違う点としてあると思います。それに加えて本はページ順があるので、ある程度見る順番や伝えたいものをコントロールできますが、展覧会に関して言えばそれは難しいなと。なので、それを逆手に取りつつ空間として構成する、ということを考えなければいけないポイントだと思います。あと、本は一人で集中して見るものですが、このような展示会場だと、人が何人かいる瞬間もあるので、その時に成立する要素を入れたいと考えています。

中村) 本当にそうですよね。すごろくはまさに、この場所でしか体験できないことですよね。また少し話を現代美術やアートの方に広げていくと、最近はパフォーマンスのように、物として残らない表現も一般的になってきたかと思います。千賀さんの作品も似た側面があります。壁の作品を見て、ウロウロしながら「これはあれかな?」とか考えて、今度は置いてある本を読んで、椅子にも座ってみる。そういう観客の存在自体も、ある種のパフォーマーとして、千賀さんの作品にとって欠かせない重要なエッセンスになっているのかなと思いました。

千賀) はい。会場に来ている人を、勝手に借りているところがあります(笑)。そんな感じで、やはり展示と本は違うところがあるけれど、それぞれで伝えたいメッセージや体感するものは、やはり近いところをしっかりと押さえていきたいと思っています。

中村) そして私は、展覧会は期限があるのが本当にいいなと思っています。永続しないというところが展覧会の価値であり、意義であるような気がします。

千賀) うん、うん。本当にそうだなと思います。
参加者④ 作品について、それぞれなぜ水溶紙を使ったのか?とか、なぜ水溶紙を使わずにツルツルとした紙を使ったのか?とか、違いはあるんでしょうか?

千賀) まず、つるつるしている紙やアクリル額装の作品を集中的に置いている場所については、反射を使いたかった、という理由があります。

中村) 作品を見ている人の顔が、作品に映るということですか?

千賀) はい。それこそ黒くつぶれた人の顔をアクリル額装した作品《鏡》は、僕が今いる場所から見ると「人の姿が映った写真がある」ように見えますが、作品に寄ると、自分の顔しか見えなくなるんですよね。そのように、自分の姿と写真の中のイメージとのピントが行ったり来たりする。写真の中の人物を見ているはずが、それを見ている自分を見ることになってしまう。そのような行き来ができる作品を設置しています。

最初に想定していた会場内での鑑賞者の動きは、反時計回りだったんですよね。ターポリンの作品が目を引く装置となり、そこから見始めて、次に絵画のような「まず、自分でやってみる。」シリーズを見る。段々、写真と認識しやすい作品が来て、最後に写真に映った自分の姿を見せられて、帰る。みたいな(笑)。

中村) そういうストーリーがあったんですね!先ほど、「写真集と展覧会では人の動きのコントロールのしづらさに違いがある」という話がありましたが、千賀さんは展覧会での動線もかなり考えてらっしゃったんですね。

千賀) そうなんです。けっこう考えてはいます。

質問者⑤:オンライン) 千賀さんは社会問題に興味がおありだと思います。常にそのアンテナは張っているのでしょうか?また、社会問題はいろいろあると思いますが、アンテナが引っ掛かるポイントはありますか?

千賀) 僕は社会問題を常に探している、という感じでもなくて、身近なところで話を聞いたり、友達から「こういうことで困っていて」とか相談されることがきっかけとなります。その話について深く見ていくと、実は社会との接点があることに気づき、テーマとして扱っている感じですね。例えば、大きなお題目を掘っていく、というやり方もできるとは思うんですが、あまり自分はやっていないです。そのトピックにまつわる人、苦しんでいる人をわざわざ探しに行く、といった制作スタイルには少し抵抗があるので、もともとの知り合いから始まっていくことが多いです。

中村) なるほど。その考え方も面白いですね。いわゆるジャーナリズムの場合、特定の問題や課題がまず見えた上で、被害者や加害者などの関係者に会いに行く、というやり方が一般的かと思います。でも千賀さんは、問題の全体像が見えない段階で「実はこういうことがあってさ」といった知人の話など、自分に関係あるところから、その問題に行き着いていく方法なんですね。

千賀) そうですね。やはりそれが、自分にとってリアリティさを感じるポイントでもあるので、そういうスタートの切り方をすることが多いです。

スタッフ) ありがとうございます。そろそろいい時間なので、この質問で質疑応答を締め切らせていただきます。千賀さん、中村さん、本日ありがとうございました。



BUGでは今後も、さまざまな展覧会・イベントを開催しております。年間スケジュールも公開しておりますので、ぜひご確認のうえお越しください!