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一期一会のおはなし―2


「絶対」なんかありえない

みなさん、よくお寺へ行ったり、お葬式の時とかに、「般若心経」を唱えるでしょう。大勢でそのお経を大声で唱えると、なんとなく落ち着くとよく言われていますが、意味を聞いたら、さっぱりわからないとか、漢文がむずかしいとか言われますね。確かにそうです。


また、一行一行で読み解くと、「」だらけでしょう。

たとえば、「無眼耳鼻舌身意」、つまり、目がなく、耳もない、鼻もなく、舌もない、身体と意、つまり「心」までないと偉そうに言い張っていますね!


どういうことですか。だって、鏡を見て、ちゃんと鼻がありますし、もちろん耳も両方ありますよ!


当たり前でしょう。坊主だけはいつも訳が分からぬ説法ばっかり。もう嫌になっちゃいますね。




同じように、無富士山、無日本、無東京などとも、いえるでしょう。
さきほど富士山はどこにありますかと聞いたように、今度、あなたの鼻がどこに始まり、どこに終わるか、と聞きましょう。


東京はここに始まり、ここにおわると言えますか。ご自分お顔を触ってみてください。鼻があるでしょう。じゃ、その鼻がどこにはじまり、どこにおわりますか。きっと、みなさん、それぞれの違うところをしめすでしょう。


結論から言えば、これは絶対東京だとか、ここは絶対富士山なんて、地図上の記号だけで、結局どこにあるんだ? ということです。同じ様に鼻が絶対ここからここまでだ、心がここからあそこまでだと言えません。ないないと言ってますが、でも、同時に、鼻を捻ったら痛いし、目に指をさしたら、涙もでるでしょう。じゃ、結局、どういうことでしょうか?





AはAでないからAである

この間、ティク・ナット・ハンというベトナム生まれの仏教僧侶が作った「一枚の紙に雲を見る」という詩を読みました。原文は英語ですが、日本語に翻訳にすると次のようになります。


一枚の紙に雲を見る

もし、あなたが詩人であるなら、
この一枚の紙の中に雲が浮かんでいることを、はっきり見るでしょう。
雲なしには、雨がありません。
雨なしには、樹は
育ちません。
そして、樹々なしには紙ができません。
ですから、この紙の中に雲があります。
この一ページの存在は、雲の存在に依存しています。
紙と雲は、きわめて近いものです。


普段は我々が紙を見る時、紙しか見えませんね。逆に、私が紙だけでなく、雲も見えるぞと言ったら、みんなに笑われちゃう。


それは紙だけの問題ではありません。すべてのものそうです。車を見る時、車しか見えない。スマホを見る時、スマホしかみえない。お茶を飲むとき、お茶しか見えないし、田中さんに会う時、田中さんしかみえないでしょう。それしかみえないと言うよりも、それしかないと思う。つまり、それは絶対そうだと信じる。


もっと極端にいいますと、なにかトラブルがあったとき、「絶対おまえのせいだよ!」、「おれが絶対正しい」などと、よく言います。でも、実は、富士山のことと同じように、(絶対の)車なんてない、(絶対の)スマホなんてものもない。(絶対の)お茶なんてない、(絶対の)田中さんまでいない、ましてや、絶対正しい、なんてこともありません! だから、般若心経を唱えると、目もない、耳もないなどと読んでいます。同じですね。それはどういうことでしょうか。



 「絶対」という言葉をみたらわかると思います。「絶対」というのが「他に比較するものや対立するものがないこと」と言う意味ですね。しかしながら、よくよく考えますと富士山があるために、「山」という概念が必要ですね。「山」を見るために、山ではないところ、つまり、「谷」の概念が必要です。故に、「谷」がないと「山」なんてありえないでしょう。


また、「山」もないと、富士山だってだれも見えないですね。ようするに、いろんな縁によって富士山が起こるということです。それだけだはないです。同じ様に、車が存在するために、車輪が必要ですね。メタルも、エンジンも、ドア、窓のガラスもそうです。また、車ではないもの、つまり他の乗り物(バイク、ママチャリ、スケボなど)の概念がなければ、車の話にならないでしょう。


 スマホ、お茶もそうです。美味しくお茶を飲みたいなら、まず誰かがお茶っ葉を摘まなければいけないですね。でも、いきなり、お茶っ葉が取れるわけありません。最初に、お茶の木の種を植えて、育てないと何もならないでしょう。


それに、お茶の木が成長するためには、太陽の光、雨、適度な温度も必須ですね。あと、お茶をそのまま飲むわけではないでしょう。急須もいる!でも、急須を買うために、お金がいる!でも、今仕事がないから、給料をもらってない。仕事を探さなきゃ。一番かんたんなのはネットで探すことですね。じゃあ、スマホでさがそう!


なるほど、お茶一杯飲むために、スマホが必要です!


こうゆうふうに、すべてのものの存在は、ティック・ナット・ハンが言ったように、他のものの存在に依存しています。例外がありません。すべてのものが「おかげさま」で共に在りあう。「おれさま」ではなく、あくまでも、「おかげさま」です。


私たちのうしろにいつも、「おかげさま」の「かげ」があるからこそ、それぞれ、生きることができます。全ての世界に生かされているのです。私たちは多くの人や物に支えられて生きています。だから、最初に言ったなにもないというネガティブな世界ではなく、私たちが思っている世界と実際の世界が違うということです。


つまり、富士山は(絶対の)富士山ではないから富士山だということになります。是非、今度富士山を見ている時、その美しい姿を観ながら、谷、海、雲、鳥、溶岩、煙、太陽、、観察して観てください。そうしますと、その瞬間がきっと無限の瞬間になります。あなたが富士山になり、富士山があなたになると思います。

それが本当の意味のならいかたなのです。

「ならう」という言葉は、そもそも、「習い合う」のことを言いらしい。習い合うというのがなりきることに他ならないのです。境目がない目で世界を見る力なのです。自分と他人の世界では繋がる世界を習うのではなく、繋がっている世界の中では自分と他人の世界になり合うのです。これを直接的に述べた芭蕉の言葉が「松の事は松に習へ」であります。

でも、いきなり「富士山になれ」とか「松になれ」といわれたら、「何ですって!?」混乱させるかもしれませんが、しかし、ここではあまり難しく考えなくてもいいと思います。具体的に言いますと、電車で年寄りの方や不自由な方がいれば、席をゆずることです。近くの野菜売り場へ言って、支払いの箱があるけど、誰も見えないから、払わずに言ってしまうのではなく、だれみてみなくても、箱に適応な金額を入れることです。


また、上の部屋で気持ちよくゲームをやったり、音楽に聞いたりしている時、突然、下の部屋から「手伝ってよ!」と呼びかけられたら、「ちょっと待ってよ。だって、今、忙しいのよ」と面倒臭そうに思うのではなく、さっさと「はい。行きます」と元気で答えることです。それだけの話です。


つづく

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