読書ノート「量子とはなんだろう」(著:松浦壮 ブルーバックス)

哲学好きの文系人間なのですがブルーバックスも好きで良く読みます。量子力学とか宇宙論は特に好きな分野ですが2020年6月刊行の「量子とはなんだろう」は全体的に哲学的な構成になっていて今まで読んだ量子力学の解説書では一番自分に刺さりました。

まず「はじめに」の最初のページに「見えている世界は世界そのものではない」という1文が出てきます。これは物自体は知り得ないというカント流の考え方に近く観念論的です。次にP.8には「直感は育むもの」という文も出てきます。これは経験主義的な考えです。

量子が粒子と波の性質を併せ持つのは量子力学の基本ですが多くの人にとって直感的には理解しがたいことです。本書ではこれが観測により実証された動かし難い事実であることが明かされ、さらに夜空に星が見えることすら量子力学が事実でなければ成り立たないことが示されます。量子現象は単にミクロの世界の見えない出来事ではなく我々が五感で触れる現実すら量子力学に支えられているのです。

本書では量子力学本体の解説にあたってハイゼンベルクの行列力学の説明から入ります。一般向けの解説書でこういう構成を取っているのは珍しいでしょう。なぜ量子を表現するために行列が必要なのか数式の意味を誤魔化すことなく丁寧に説明していきます。数式が次々出てきますが高校文系数学の知識で乗り越えられる程度にやさしくしてくれていますので文系の方も臆せず読んでいただきたいです。

その後にシュレディンガーの波動方程式の説明がなされます。このような構成となっているのは両者の違いが行列を運動の本質とみるか状態ベクトルを運動の本質とみるかという解釈の違いであり異なるコンセプトで作られた数式が数学的に全く同等の量子現象の予言を導くことが示されます。さらに畳み掛けるようにファインマンの経路積分の説明に入ります。そして著者の結論はP.179に記されているので引用します。「量子の運動とは、行列の運動であり、波動関数の運動であり、あらゆる可能な経路を通る粒子の運動ですが、そのいずれでもありません。」

これは物理法則を表す数式は世界の実相そのものの表現ではなく人間の側の可能な解釈であり、妥当な予測を導くことができる数式には同等の価値があるということを示しています。

その後はフェルミオンとボゾンの違いや重ね合わせの原理と観測問題などについて数学的意味を丁寧に解説したり量子に特有な現象や性質の解説を行っていますがまあこの辺は一般的な解説書でも触れられる話です。

ここで「はじめに」に書かれた2文の意味に戻りますと人間の直感は利用可能な観測手段(原始的には五感)に基づいて状況を理解し予測するために構築された「回路」であるという理解です。「法則」もまたその延長線上にあるのです。したがって経験を拡張することや理解を深めるための訓練によって直感をアップデートすることが可能ということです。つまり量子力学が多くの人の直感に反するのはそれを理解する必要がある状況を見たことがないことに起因しているので理解し、訓練することで量子が当たり前に思えるようにもなり得るという考えです。その上で、そうして育んだ直感も量子そのものを直接捉えているわけではないということでもあります。

「おわりに」において「科学とは現象の説明体系である」という言葉が出てきます。すなわち観測事実をより良く説明できる体系が良い体系というプラグマティックな視点から観念論と経験論は対立することなく車の両輪として世界のより良い理解を助けるということなのだろうと思います。

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