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読書ノート 「増補 複雑系経済学入門(著:塩沢由典 ちくま学芸文庫)」

1.はじめに

私は大学では法学部で学んだのですが一般教養課程において経済学の講義を取りました。当時、ミクロ経済学に対して強い違和感を感じたことをよく覚えています。本書は私が学生の頃に疑問に感じたことに対しストレートに答えを与えてくれています。

市場(しじょう)という言葉を聞いた時、真っ先に市場(いちば)が思い浮かびます。そしてミクロ経済学では市場価格は需要と供給によって決まるとし、神の見えざる手が国民経済をまるで一つの市場(いちば)のように取り仕切り皆が一斉にオークションに参加したかのような結果をもたらすというイメージです。

しかし自分が買い物をするときにはその時々の予算の範囲で欲しいものを買うだけであり店の付けた価格に対して交渉するなんていうことはめったにありませんし価格が高すぎれば買えないだけです。また合理的経済人は消費に関し一貫した選好順序を持っていなければいけないですが例えば食事一つとってもラーメンが食べたい日もあればカレーが食べたい日もパンが食べたい日もあるわけで、ましてや全ての商品に一貫した選好順序なんか決められないし実際に決めていませんよね。

企業の生産関数の構成原理となる収穫逓減の法則についても数理経済学の源流である重農主義が対象とした農作物なら成り立つかもしれないけど工業製品にそんなことが成り立つのか?と疑問に思いましたが当時の教授は「だいたい成り立ってる」みたいなことしか言ってくれなかったように思います。

本書の主題である複雑系経済学はミクロ経済学とは根底から異なる発想に立ち、市場とは相対取引のネットワークであると考えます。私たちが普通にイメージする経済取引は相対取引ですし現実社会でも株式市場とか卸売市場とか以外は商売人でも相対取引が主でしょう。

そして生産に関しては原則として収穫逓増であるとします。逓増というのは生産規模が大きくなればなるほどより少ない投入(コスト)でより多くの生産ができるようになるということです。その方が素人目にも直感的に理解しやすいし、実証的にみても現実の経済がそうなっていることは間違いないでしょう。

このように従来のミクロ経済学とは全く異なる前提に立ち、ネットワーク状の経済過程を複雑系科学の理論を応用して分析しようとする経済学を複雑系経済学といいます。

2.限定合理性と複雑系

本書ではまず経済学の失敗の歴史が語られます。マルクス経済学が生んだ社会主義は崩壊し、ケインズが創始したマクロ経済学はスタグフレーションに対して無力で失業を解消することができず、ミルトン・フリードマンが提唱したマネタリズムは端的に言って何の成果もなく大失敗し、合理的期待形成仮説は非現実的なパズルとなりました。こうした失敗の理由はマクロ経済学がミクロ的基礎を欠いている点にあるとしつつ均衡を基礎とするミクロ経済学とマクロ経済学は本来的に両立しないといいます。

ミクロ経済学では価格体系を独立変数として需要関数と供給関数が構成され均衡価格で需要と供給が一致すると説きます。数式は大変良くできています。この場合に需要と供給が均衡できるのは収穫逓減を仮定しているからです。ミクロ経済学が想定する完全競争市場でもし収穫逓増であれば最も規模の大きい企業が市場を独占してしまって均衡価格など存在しえないでしょう。しかし実際の生産活動は収穫逓増が普通なのだからきれいな均衡のために非現実的な仮定を置く理論の方が間違っているのです。

ここで社会主義がなぜ失敗したのかという話題に移ります。ソ連においては国を1つの工場のように運営することが理想とされ、線形計画法を基礎にコンピューターで自動計算するシステムを構築しようとしましたがあらゆる代替案の中から最適なものを選び出すような計算は実行不可能であると分かりました。実際には中央上層部が大まかな目標を示して各企業の裁量にゆだねる方法でしか経済を運営できなかったそうです。そうなると新技術を中央の計画に整合性を持って取り込むためには次期以降の計画を待たなければなりません。こうしたスピード感のなさが失敗の原因と分析されています。

新古典派経済学では合理的経済人である個人が効用最大化を実行すると仮定されています。しかしソ連が一国を上げてもできなかった最適化問題の計算を個人がやすやすと実行しているなどということがあり得るでしょうか。

一定の価格体系において予算の制約の下で購入可能な全ての商品の中から効用を最大化する組合せを選べというのは仮に個人が価格を完全に把握し首尾一貫した効用関数を自覚しているとしても実際には実行できないのです。理由は商品の組合せの数が増えれば増えるほど計算量が飛躍的に増大するからです。

1商品ごとに買うか買わないかの選択しかないとしてもN種類の商品がある場合に比較すべき購入計画の数は2のN乗になります。N=10くらいなら人間でもなんとかなりますがN=30となると世界最速レベルのスーパーコンピューターを使う必要があるほど計算量が増大するのです。効用最大化計算のような問題は数学的にNP完全問題といわれ現実的に計算を実行できないことからNP困難と呼ばれているそうです。

さらに実証的な調査から製造業の多くの企業で収穫逓増であることが示されます。収穫逓増が成り立つ場合、ある価格で売りたい量が制約されるなどということはあり得ず企業は原価割れさえしなければ買ってもらえるだけ売るということが帰結します。

したがって需要関数は計算できないし供給関数は構成できないから需要と供給の法則=一般均衡などは現実世界で成り立っているはずがないのです。

次いで経済学以外の複雑系科学の紹介がされます。物理学ではニュートンの運動方程式のように均衡点や極限周期軌道など確定した状態を持つ系や統計力学のような確率的な平衡状態を扱うものがありますが、近年、これらに加えカオスやフラクタルといったものが注目されました。カオスは運動が均衡状態や極限状態にならない系でフラクタルは繰り返しによって作られる複雑な構造を指します。さらにベキ分布という統計分布をとる現象など多様な複雑系の現象が注目を集めました。近年までこうした現象が注目されなかったのは均衡解や平衡状態のない系のふるまいを調べるためには状態を逐一計算してみる必要があるからです。近年はコンピューターシミュレーションでそうしたことが可能となったので研究が進みました。そうすると自然界は複雑系で満ちていることが分かってきました。

さらにこうした複雑系の理論が人工知能の研究を介して効用計算の際に問題となった計算量の理論と結びついてきました。ロボットに時間内に部屋の中にある壺を取ってくるように命じるとします。部屋の中には色々なものがあるので任務に関係あるかないか判断するため感知できるすべての要素を計算に入れたら時間内に計算が終わらなくなります。しかし壺しか見ていないようでは何かしら障害に引っかかって任務を達成できないでしょう。任務の達成に必要な情報の取得の範囲をどうやって時間内に計算が終わるように制限できるかというのが人工知能のフレーム問題です。

振り返ってみれば人間の経済行動とは計算能力をはるかに超えた複雑な状況に対し何らかの対処をしてフレーム問題を解決しているわけです。そうした観点から経済を分析するのが複雑系経済学です。

経済の複雑さには3つの様相があると言います。①対象の複雑さ、②主体にとっての複雑さ、③認識における複雑さです。①は経済システムそのものの複雑さ(これは物理系と同様)であり、②はシステムの中の主体にとっての判断要素の複雑さ(フレーム問題)であり、③は経済対象が人間の分析能力を超えていること(計算を実行できない)です。

人間の計算能力に限界があるのだから合理的経済人は実在しえないし、最適化問題は解けないのです。人間の能力には3つの限界があるといいます。①視野の限界、②合理性の限界、③働きかけの限界です。①は情報収集の限界と言っていいかもしれません。現実に人間が情報を収集するには一定の時間と費用がかかるので不完全な情報で判断せざるを得ません。②は既に述べた計算能力の限界です。③は判断に基づいて何か行動しようと思っても一定の時間内にできることは限られているということです。特に①により情報が限られると効用も期待効用という確率的なものになり、その結果、計算が一層複雑になって②の限界に早く突き当たってしまうという問題が生じます。

ただし合理性に限界があるといっても常に不合理なことをするという意味ではなく限界の中でできるだけ合理的な行動をとろうとします。これを限定合理性といいます。

複雑系経済学では新古典派のような多数の主体の行動の総和を市場とみるようなアプローチはとりません。個々の主体が取引を通じて相互作用する過程がネットワーク的につながった総過程が経済であるとみます。取引は2者の相対(あいたい)が基本となります。なぜかというと複数の主体が集まって交渉するとまとまりにくいからです。まとまりにくくなる理由は限定合理性しか持たない人間は要素を限定しないと判断できないからです。

特に重要なのは貨幣です。もし取引が物々交換だったら交換の組合せが膨大になってしまいます。しかし貨幣があれば交換は商品と貨幣の関係に単純化されます。さらに貨幣のこの効能によって取引を2者間の相対取引におさめることも一層容易になるのです。取引において貨幣が必要とされるのは複雑性を抑えるためなのです。そして貨幣を介して相対取引がネットワーク状につながっていきます。

複雑系経済学は取引における貨幣の必然性を良く説明できます。貨幣の誕生に国家は必要ではなく、むしろ国家が貨幣の必要性に寄生しているのです。これは以前読書ノートを書いたMMTの貨幣観が根本的に転倒していることを示していると思います。(読書ノート「MMT 現代貨幣理論とはなにか」

3.ミクロ・マクロ・ループ

現実の企業は完全情報を持たないので需要予測は確率的になります。小売業を例に考えます。販売のためには仕入れが必要ですが確率に基づく仕入れは外れることもあります。これを調整するのが在庫です。このように過程を分解すれば企業は限られた情報だけから仕入れを実行できます。もちろん通常と異なるような事態が生じれば欠品等が生じますがそのような外れの発生さえ長く経営していれは予測の範囲に入ってきて対処方法もあみだされます。このように経営を部分過程に分解して各過程の管理を経験豊富な現場に任せることにより企業は限定合理性の下でもそれなりに上手くやっていくことができます。

限定合理性の下でこれらが上手く回るためには基本的な部分過程が一定の確率的ゆらぎを持ちながらも反復・繰り返しとなっていることが前提となります。その上で確率的なゆらぎを持ちながらなんとかそのゆらぎを吸収していこうとする部分過程の結合により総体としての経済過程は一定の定常性を持ちます。しかし繰り返しを許さなくなるような変化がどこかの部分で起こるとネットワークを介して変化を強化していく形で全体に波及してい行きます(自己組織化といい複雑系によくみられる特徴です。)。これをミクロ・マクロ・ループと言います。複雑系経済学ではこのような形でミクロの企業行動とマクロの経済総過程がつながっていると考えます。

ミクロの主体が上手く行動するためには定型化が必要となります。1つの主体だけではく同様の経済活動を行う主体が同じような定型行動を行うと業界や社会の商習慣になっていき、これに何らかの強制力が加わると制度になります。また定型化は技術として伝わる場合もあります。習慣、制度、技術にはどれも知識という側面があり学習されうるとともに進化しうるものでもあります。

複雑系においては逸脱増幅的相互因果過程とか自己再強化過程などと呼ばれる過程によってミクロの主体の知識=行動の進化が全体に波及して社会を進化させます。新古典派が市場を静的な均衡へ向かうシステムと考えるのに対し、複雑系経済学では経済システム全体を歴史性を持つ進化過程にある動的なものと捉えます。以上が複雑系経済学の考える経済システムの全体像です。

4.素過程

経済を構成する部分過程についてどのように部分を分解するかというのは見る人によってかなり自由度があります。そこで素過程というものを考えます。素過程とはそれ以上分解できないような過程です。といってもそれほど厳密なものではなく常識的に考えてみてまとまりを決めればいいだけです。

素過程の特徴としてまず局所性があります。局所性には空間・時間だけでなく理論の局所性があるといいます。収集・利用する情報の範囲だけでなく判断要素も絞られます。1つの素過程の変数は2つ3つくらいのものです。次に素過程は切り離し機能があります。素過程の中で自律的に判断ができることが必要です。素過程の例を挙げれば仕入れがあります。売上予測から仕入れ量を判断するとき、在庫という仕組みが切り離し装置となって仕入れを素過程に分解しているとみます。限定合理性の下では仕事を素過程に分解していかないと仕事は回せません。仕入れの仕事も発注とか支払とかさらに細かい要素に分解できますがそれらはそれ自体で自律的な過程となってはいないので仕入れという単位が素過程と考えられます。

定型的な仕事だけではなくファッションショーのような仕事も素過程に分解されます。デザイン画の作成、生地の選定、縫製と順序だてて仕事を進め、必要な枚数の服を揃えなければショーはできません。それぞれの素過程ごとに専門的な知識や技術を持った人がいて素過程が自律的に働いているからこそ全体の予算やスケジュールを組めます。素過程が上手く機能するのは素過程が繰り返し過程になっていて人間がそこから繰り返しのパターンを読み取っているからです。

複雑系経済学では経済行動をCD変換とみます。CはCognitive、DはDirectiveの頭文字で認知的意味を指令的意味に変換するプログラムが知識です。「いかにあるかの知識」から「いかになすかの知識」を導き出し「この場合にはこうせよ」という形に定式化します。経済主体が状態qにあるとします。状況がSであると認知したら行動S'をとるという指令が導かれます。そうすると主体の状態はq'に遷移します。これをqSS'q'と定式化します。状況がSでない《~S》なら別の行動S''をとるとしてもいいでしょう。q~SS''q''という別の定式も作ることができます。素過程はCD変換のパターンの集まりとみなせます。こうした知識を保持する自律的な素過程を単位とするから経済システムは限定合理性に伴う確率的なゆらぎをコントロールして定常性を持てるのです。

なんのためにこういう議論をしているかというとCD変換をコンピュータープログラムとみなせるからです。均衡解のない複雑系はコンピューターシミュレーションなどで実際に過程を計算しないと状態が分からないのでモデルを作りやすいような定式化が必要なのでしょう。定式化には割り切りがつきもので定式にあてはまらない事例もあるでしょうが、完全情報を持つ主体が完全合理性もって計算しないと実現できない一般均衡モデルよりは現実に近いと思われます。

5.複雑系としての企業

経済の重要な主体である企業について考えます。複雑系経済学では企業は単純な主体ではなく複雑系を内部に抱えた組織と考えます。そこから導かれる結論は企業は利潤を最大化できないということです。企業経営者の役割とは企業内の素過程に当たる各部門に利潤を増やすように働きかけることです。複雑系である企業全体にはこうやれば利潤が最大化するという単純な方程式はなく、試行錯誤の結果として利潤が増えたり上手くいかなかったりしているのです。企業の利潤最大化は新古典派が均衡解を導くための原理ですがそもそもその点が否定されてしまうわけです。

企業の各部門は素過程同様に定型行動を基本として自律的に働いています。経営陣が現場の細かいことをすべて把握したりいちいち指示しようとてもできるものではありません。しかし繰り返しに基づく定常性は熟練により労働生産性が向上するという面はあるものの、自然と利益を増やそうと行動してくれるわけではありあません。このため経営陣は各部門に利益を増やすように働きかけるのです。他方、企業が業務を効率的にこなせるのは各部門の自律的定型行動によっているところが大きいわけですから上から改革を押し付けようとしても上手くいかず各部門が主体的に改善に取り込んでそれを定型行動に定着してもらわないといけません。このため大企業になると中間管理職の役割も重要になります。

6.複雑系における価格決定

素過程や企業が相対取引でつながるネットワークは自律分散的システムです。全体としても一財に限っても「組織された市場」がある方が例外であり「一物一価の法則」すら厳密には成り立たないのです。自律分散的システムから現れる秩序を複雑系科学では「自己組織系」と呼びます。自己組織系である経済が効率性を持つ原理は一般均衡ではなく「価格裁定の原理」です。経済に2つの部分がありそこに比例的でない価格体系が存在する場合、交易を行うことにより効率性を改善できるというものです。リカードの貿易理論として知られているものと内容は同じですが一国内でも相対取引のネットワークの中に価格体系の違う部分があるならこれにより価格差がなくなっていきます。結果としてワルラス的な均衡価格と近い価格体系に落ち着くのです。しかし一般均衡モデルと異なるのは、価格差は解消に向かうけれども価格変化に応じた数量調整などは多くの場合行われないとうことです。

工業製品では1つの最終製品を作るのに膨大な部品が必要です。例えば自動車に1万個の部品がある場合、各部品は最終製品の計画生産台数の倍数分必要です。一方、部品の原材料の需給(タイヤのゴムなど)はその最終製品の需給だけで決まるわけでは当然ないのです。そうした需給に合わせていちいち部品の価格が動き、価格に応じて生産数量が調整されるとしたら最終製品の生産計画は崩壊します。現実には多くの製品でまず価格を安定させた上で数量を調節しているのです。消費者に売る場合も希望価格を決めて売れそうな分の在庫を用意します。

このような自己組織系は素過程の反復、繰り返しにより全体が定常過程となるだけでなく技術進歩により劇的な進化も起こります。例えば半導体製造技術が進歩して高性能な半導体が低価格で量産できるようになればそれを使う様々な新製品が開発され、新たな需要が生み出され経済は成長し、賃金も上がります。賃金の上昇も製品価格の低下も労働者の実質所得を増やし半導体関連以外の商品でも消費を増やします。その中でどの産業が伸び、どの産業は衰退するかは複雑な要因で個別に決まるためダイナミックで予測しがたい構造変化が起こります。

7.収穫逓増と規模の経済

需要と供給の法則が働く新古典派経済学の理論では企業の生産費が規模拡大に応じて減少する=収穫逓増であるならば1つの企業がどんどん生産拡大して市場を独占するはずです。だから理論的枠組みとして収穫逓減を仮定したわけです。しかし製造業など現代の典型的な産業は実証的にみて多くの場合、収穫逓増です。

そもそもなぜ製造業は収穫逓増なのかというと原材料や賃金は生産量に比例する一方、設備・機械は固定費であり生産能力の限界まで費用が一定で限界を超えると単にそれ以上生産できなくなるだけだからです。そうであれば平均費用は生産量を増やすほど低下すると分かります。次に設備・機械(いわゆるライン)が限界になってもっと売れそうならラインを増設します。その場合、例えばタンクがあったします。同じ大きさのタンクを2個作るより容量2倍のタンクを1個作ることにすれば(大きなタンクを作る技術がないなどという例外的な場合を除けば)その分コストが低下します。逆にラインを増やしたら増設コストがより増大するような場合は通常は考えにくいのでラインを増やせばある程度コストが低下すると分かります。したがってここでも収穫逓増になります。

他にも規模拡大が標準化(デファクトスタンダード)につながる場合などは規模拡大がさらに有利に働くのです。標準化が起こる場合には分岐といって普及台数などが一定の閾値を超えると様相が一変するような現象が起こります。例えばかつてビデオデッキにβとVHSという規格の対立があったのですがVHSの普及がわずかに優位になるとVHSの方がビデオソフトが充実し、その結果、ますますVHSが有利になりβが廃れるということが起こりました。この過程にはビデオデッキ自体の技術優劣はあまり関係なく、関連産業との使用面での連結の効果が生じて片方だけが有利になっていったのです。

規模の経済の原理がこのようであれば必然的に1社独占になっていくのではないかと思うかもしれませんが、企業はそれ自体複雑系を抱えた組織であることを思い出してください。中央が効率的な計画で全体を統制することが不可能だった共産主義の例でもいいかもしれません。巨大な組織は素過程の結合であり、ある種の非効率性を抱えるので小さな組織に分散した方が有利になる場合もあるのです。

例えば使う機械が比較的安価で小さい場合などです。1人1台のミシンがあてがわれる軽工業では規模拡大で調達の効率化などのメリットもありますがその度合いは低く、巨大組織よりも小回りの利く大きさの方が市場のニーズの変化に柔軟に対応できたりするのです。複雑系組織の宿命として組織が巨大化すると意思決定が柔軟性を欠き、緩慢になる傾向があるためです。近年なら1人1台の端末で仕事ができるIT系などもこちらに当てはまるかも知れません。

他方、多大な設備投資が必要な産業ほど寡占度は高まります。しかし、ある成功状態に入るために多大な努力を払った結果、それ以外の方向への努力が行われなくなる「ロックイン現象」や、組織がたどってきた学習の歴史的経緯により技術進歩の方向が制約される「経路依存現象」など、組織もまた複雑系の根幹である限定合理性の制約から逃れられないという面があります。現実には狭い範囲の特定分野では大企業を寄せ付けない中小企業もあります。巨大企業ですら、いや巨大だからこそ万能の存在にはなれないのです。

8.雑感

以上が本書の大雑把な内容になります。経済は一定の定常性を持ちながらダイナミックに進化する複雑系であり企業もまた限定合理性しか持ちえない内部に複雑系を抱えた組織です。そうすると新古典派の考える均衡がなくても価格体系に一定の定常性が現れたり、逆に収穫逓増であっても容易に市場が独占されることもないのです。一物一価の法則が厳密には成り立たないように複雑系としての企業のトータルコストの構造も企業ごとに異なっており、企業ごとには収穫逓増であっても大企業ばかりが有利になるわけではないのでしょう。

こうした枠組みでは新古典派の経済学とは分析が全く異なってくるでしょう。例えば日本がなかなか「デフレ脱却」できない理由を考えると、そもそも消費財の価格は需要量では変動しないのだからマクロ的な政策で一般消費者物価指数を上げようという発想に無理があるのです。複雑系の観点から見るとマネーストックだの国内需要の低迷だのがデフレの原因であるという一面的な見方は正しくないし、日本経済が低迷している原因がデフレだという見方も正しくないと思われます。デフレはミクロ・マクロ・ループの結果として現れる現象であり市場の不均衡が原因で起こっているのではないのです。金融政策だけで「デフレ脱却」できないのは当然ですが日本特有の右派のMMT論者が主張するような財政を噴かすだけで簡単に「デフレ脱却」できるという見方も当然正しくないはずです。

この点、本書は複雑系経済学の全体像と価格形成と企業行動に関する理論のミクロ的基礎付けまでで終わっておりミクロ・マクロ・ループの結果として現れるマクロ現象の分析やマクロ政策のあり方については踏み込まれていないのでその辺りが気になるところです。

しかし経済が複雑系であることから素過程のCD変換モデルの取り方でシミュレーションの結果がいくらでも変わってくると予想されます。筆者も本書の中で複雑系経済学は未来予想の科学ではないと言っており経済が複雑系であると認識することはマクロ状態の将来予測と制御の困難性を認識するということになります。企業経営者が試行錯誤の中で各部門に働きかけても利潤最大化を実現することが不可能であるように、一発で国民経済を最適化できる大正解の政策なんてものは無いのでしょう。

例えばアメリカ左派のMMTが主張する雇用保障プログラムについて複雑系の観点から考察すると、こうした理論は労働者が自己の労働について時給以外の価値を認めず、市場の情報を完全に把握し、1円でも高い時給で雇ってくれそうなところがあれば速やかに転職し、稼いだお金で瞬時に効用最大化を実現する完全合理性を持つ存在と仮定しているのです。彼らは必要以上に未来をおそれず、過去は一切振り返りません。それゆえに学習も進歩もしません。彼らにとって労働とは穴を掘って埋め戻すが如きものにすぎないのです。しかし現実の労働者をそのような存在とみなすのは非現実的です。

国民経済を組織とみると部分過程の持つCD変換が何を変数として行動し他の過程とどのような結合構造を持つのかを見極め、より良い方向へ向かうよう働きかけるのが政府の役割となるでしょう。裁量的かつ創造的な金融政策と財政政策を車の両輪として民間経済の構造改革にも長期的視点で取り組み、マクロ経済政策とミクロ構造政策を有機的に結び付けていくことが必要なのだと思います。

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