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徒然ならない話 #9 ダブルシンク

ダブルシンクという言葉を知っているだろうか。

元々はジョージ・オーウェル『1984年』内の用語で、
全く異なる二つの相対した考えや意見を同時並行で持ち合わせ、
同時にそれぞれの間に発生する矛盾や相違点を理解しつつも両方を支持し続けるという思考能力を指す。

例えを一つ考えてみた。
ある人間について、
A「自分は男である」という認識と、
B「自分は女である」という認識の二つが同時に存在するとする。
この時、二つの認識は相反しており、同時に存在する場合矛盾が起こる。
どちらかが正ならどちらかが誤であることになるからだ。
通常の人間の思考であれば、その矛盾を思考内に経由するものである。

しかし、ダブルシンク(=二重思考)状態に置かれた人間にとっては別の話だ。
ダブルシンク化した人間は、たとえAとBの間に矛盾が存在したとしても、その矛盾に「意図的に気づかずにいる」。
さらにいえば矛盾を認識してしまったとしても、「矛盾を見つけた」「矛盾がある=AとBのどちらかが誤」という事象を思考の流れから排除する。

つまり、相反する二つの概念にある矛盾をあえて認識せず、自らの思考に紛れ込んだとしても排除・忘却のプロセスを経て両者を最後まで信じ抜くということだ。

矛盾を含む都合の悪い点さえなくなれば、
どんなに異なる二つの物事も同時に存在できる。

思想統制の行き届いたディストピアを描いた『1984年』では、
ダブルシンクは体制側が自分たちを含めたすべての人々が体制を疑わず信奉するために行われている。
完全な支配を象徴する恐ろしい思考能力。

だがそんなダブルシンクが、別の作品ではある種の救いのようにも描かれた。

それが『攻殻機動隊 SAC_2045』だ。
日本を代表するSF史上屈指の名作シリーズの最新作にして、
「経済行為としての戦争=サスティナブル・ウォー」や現人類を遥かに上回るスペックを持った謎の存在「ポストヒューマン」など、
現実の世界情勢と密接にリンクしたような前衛的なストーリーが魅力の作品だ。

『SAC_2045』において、ダブルシンクはポストヒューマンが現人類の世界を完全に掌握する手段として用いられた。
作品世界内において、人類は確かに現実を生きながらも、同時に各々が電脳内でもう一つの現実を生きる状態に陥った。

しかし今作のそれは、
『1984年』のような支配的思考というよりも、人類が同時並行の多重現実を生きる力を手に入れたという進化としての側面が示された。
人類はあらゆる矛盾や違和感を排除し、あらゆる可能性を生きることができるようになった、ということでもある。
こう考えると、ダブルシンク化が恐怖の象徴にも、魅力的な能力にも思える。


…とここまで、「ダブルシンク」という言葉について語ってきた。
先日攻殻機動隊を見てからずっとこのテーマについて考えていたが、
やはり説明しようとすると哲学の授業みたいなややこしい話になってしまった。

とりあえず僕が言いたいのは、
みなさんがもしダブルシンク化の選択肢を与えられたとして、
それを受け入れるかどうか、
ということである。

ディストピア風の作品やサイバーパンクを見てからこのテーマを考えると、思考にバイアスがかかって「受け入れない」に行きそうになるかもしれない。
けど、一旦それを置いて考えたとき、
本当に二重思考を拒絶できるだろうか。

いってみれば、自分の現実とは別のところで、自分の理想や望みが具体化した世界を生きることができるということだ。
しかもそこには矛盾はなく、自己都合や理想が影響した痕跡はまったくない。

どうだろう?
僕はもしかしたら受け入れるかもしれない。

今の苦しい現実を放棄できるわけではない。
今まで通りこの現実をひたすら過ごすのは変わらない。
ただそこにいる自分は、並行した全く別の世界を生きているのだ。
この苦しい現実と相反した、理想的な世界を生きている。
そして僕は、苦しい現実と理想的な現実をそれぞれ当然のように過ごせるのだ。

矛盾に対する思考放棄と聞くと恐ろしくもあるが、いくらか安らかに生きる自分を確保できる思考でもあると考えると完全否定はできない。

言葉だけだととっつきにくいけど、
人によって意見が分かれる面白いテーマだと思った。


そういえば、そもそも今の僕たちがダブルシンクしていないと確実に言えるだろうか?

もしかしたらこの現実とは別のところで、全く異なるもう一つの現実を僕が生きているかもしれない。

もう一つの現実があるならちょっとだけ見てみたいけど、、、

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