女と男ってどうして分かれてるんだろう④
前回、③では「男性=タブレット説」についてお話しすると予告しました。
「男性=タブレット説」については、②にて既出。
男性が、胎児の状態の発達から見て、その肉体構造は実は「女’」である。つまり人類とは女型がベーシックで、そちらをPCで言うデスクトップとするならば、男性は保育機能をカットしてモバイル性を増したタブレットで、実態は「女'」である、と、いうことを、②では説明しました。
ちなみに、どうして人類に「女’」が必要だったかについては、こちらでストーリーを追いながら解説しております。
ちなみにシリーズ①はこちら。
…ありていに言えば、人類に、出産機能のない「女’」が必要だったのは、「女」に、必要な食事とプラスαの「ギフト」を持ってくる為である。…と……これは……男性に対して差別的だろうか……?いや、でも本質だよ?なあ………。
だから、男性とは、「受け取ってくれたら嬉しい」っていうのが、全ての目的に勝る、と、そういう存在なんだろうと思うんだが………、
…………間違ってる?
ところで。
狩猟担当の「女’」には、「女’」同士のコミュニティの中で、その能力に長けていくヤツが出てくるわけだが、
ここで「能力=アプリ」と定義する。
ここでですね。「特にタブレットにインストールされるアプリ」がですね、「どんないい機能のアプリが、どれだけ入ってるか」、で、the man、「男…!」と呼ばれるようになるんだと思うんですよ。
つまり「男性」とは、生まれながらにしてなるのでない。社会の中で価値のある能力を発揮できて初めて、コミュニティの中で「男」になるのである…。
「女’」から「男」へ。ここが女性と違ってしんどいところだよね。女は最初の胎児の時から、一生死ぬまで「女」だから。
と、そうして、その流れでだんだんと、男性は、男性同士の中で、無駄にアプリを競い合わせていく訳ですよ…競合する…優劣を競う…気に入らないものを淘汰する…。それは、殆ど全く、「新しい子供を生み、育てる=人類の存続」とは無関係のところでヒートアップしていって、
そうやって出来たのが、「社会」であり、「都市」である。と。
「男性」のフィールドに「女性」が入ってくると、男性同士が思う存分アプリを競い合わせることが出来ないので、「女性」は競合しないように「タブレットのアプリを搭載しない」という「常識」を作る。
…かくして、男性が負わない、人類全体のタスクであるはずの「生命の世話をする」部分は、必然的に女性が全面的に負うことになって、それは「デスクトップ専用アプリ」であるかのように、認知されていくんである…!
前回のnoteにて、わたしは、「女性が虚無を負っている」と書いた。それは「生命の世話をする」ということに伴って感じる虚無感で、生命が持っているはかなさであり、世界が「空」であることの果てしなさでもある。それに対し男性が差し出すギフトは、虚無と隣り合わせで生きる女性にポジティブな活力を与える大変パワフルなものである、という自説をぶちました。
と、そう書いたことで、
わたくし、男性の見方が変わってきたんでござんすよ…!!!
あのね、男性の発するコミュニケーションを良く見ているとね、この「虚無」の部分に迫っているなあ…!と感じられることがあるんですよ。最近、主に女性が負っている人類の虚無について、理解している男は…いい男なんだッ……!!!なッ……と、染みて感じるんすッ……………!!!!
つまり、それは具体的には例えばRMくんとかなんですけど…。
人類の虚無、ひいては女性が負っている虚無に対して理解がある、と、そういう人が差し出してくれる成果物は、「こいつは視点が…効き目が違うぜェ…ッ!!」と思ったわけです。そう。虚無は決して女性ばかりが負っているんじゃないの。──人類全体が負ってるの。これについて、意識しない男性もいれば、知っている男性もいるんである。そして、そういう人は、女性の欲しているものに対して、非っ常〜〜〜〜〜に理解が深い…んじゃないだろうか………!?どうなのッ………………!??
…しかし、虚無虚無。相変わらずパクチーさん虚無ばっかり言ってるが、それじゃ人生真っ暗じゃないですか…──暗いんですよ…!本当にこの世は虚無ばかりですか?!
──ええ…わたしだって…暗いの嫌なんですよ…だけど!虚無は大前提、なんだ!この世界は一切が空なんだから…!
わたしは、先月思った。
どんなポリシーも、強い意志も、獲得した物も、夢も、希望も、
せん妄と意識が混迷している状態で、寝たきりで、それをいったりきたりしている状態で、不可逆だったら、もうその時点で手放すことになるんだ…。
生きていながらにして。
つまり、「現の世」「自分が認識している自分」とは、「はっきり自覚された自分の意識」が獲得している感覚上に存在しているだけのもので、「はっきりした意識」を持てなくなった時点で、自分の現実から消えてしまう。
人が他界する時。
今、自分の目の前に確かに存在している、モノ。自分の力で獲得した全てを、所有を、その一切を、「自分」から手放して…それはモノだけじゃなくて………全ての概念。信仰。信念。思い込み。自分が信じていた「自分はこういう人間だ」「ここから外れてはいけない」「あの人が憎い」「自分は罪人だ」…などという、生きるための枠組み…生きてきた枠組み……の、「自分」以外の全部を置いていく。
……それは最初から無かったのだ。
脳が、あなたの意識を反映させて世界を、「こういう場所だ」と、すっかり納得してしまうそのものを、創造してしまうから。
それが「一切が空」。
この世界とは、バーチャルだから。
イリュージョン。
…じゃあ全ては徒労か?
目の前にある全てのものは、本当は存在していなくて、
幻影で、
人生をかけて構築したすべてのものは取り上げられるんじゃん。
無じゃん。
……あ、そうか。ここはあらかじめ無だから、だから完璧に自由に、クリエイションすることができるのか。
…ここには、あらかじめ存在しているものが何もない…!
あらかじめ存在している「男性性」や「女性性」なんかもない。
何を信じてもいい。
何を存在させてもいい。
何にどれだけ縛られたって、
自分を縛らせていたものすら、無に戻る。
つまり、何を現実化させるか、それは全て自分が決めている。
わたしたちはこの「虚無」のバーチャル空間で、ありとあらゆるルールを、信念を、観念を、想念を、自分が、自分のためだけに、自由にクリエイションしている。
わたしたちはこの虚無の空間に「来る」ことを選ばれて、来て、そして、ここで好きなだけ想念を具現化することを、していい。
そして、
時間が来たら全て元のようにまっさらに片付けられて、
この場を去る。
何を作っても、後で全て片付けられてしまうなら、それは無意味だろうか?何をしても、片されてしまうなら、最初から何もしないのと同じだと感じるだろうか?…いや、もしも子供たちをこんな空間に放したら、手当たり次第、かたっぱしから遊ぶんじゃないか、時間いっぱい、遊ぶことだけ考えて…遊ぶことが虚無だと考えるだろうか、遊んでいることの意味など考えるだろうか…。
ああ、そうか…。
ここにある制限は、「時間」と「重力」。
それはバーチャル空間の中にあって、リアリティを味わうための「オプション」である。「時間」はすべてのプロセスを0.1秒単位で余すことなく味わうことのできるための装置。そして、「重力」は、この「企画」は、この場を提供してくれている「地球」とのコラボ企画なのだ。「重力」を理解したものは、バーチャル世界での「創造」をより制する。
……「この世界は虚無だ」、
という体感まで行けた時、初めてクリエイションは、完全に自由になるんだ…。
自分の創造する世界が不自由な時。自分のクリエイションが不自由な時。想念が不自由な時。発想が不自由な時。そのルールは、自分が、そのルールに自分を縛らせることを許可した場合にのみ機能する。そのルールも、それに縛られる自分も、それに縛られて起こる結果も、それをぶち破って起こる結果も、最後は結局、みんな虚無に戻る。…さあ、じゃあ、どうしようか。何を、どんな現実を、バーチャル世界に創造しようか。
と、ここでアプリの話に戻る。
この現実社会を生きていく上で、必要になる能力を「アプリ」とする。このアプリをインストールしていくことで、社会人として練度を増していくのだが、この時アプリには、「女性性」と「男性性」の属性が付いているものがある。
さて。ここまでくると、「自分というコンピューターに、どんなアプリがあったらいいか」。…どのアプリが、自分の創造により機能してくれるか。これは、どこまでも「自分」が選択可能なものであることが、お分かりいただけるだろうか。…何を、どういう基準で、どれをアンインストールしたっていい!インストールしたっていい!……結果、「女性性」の属性の付いたアプリを大量に削除することになるかもしれないし、新しく「女性性」の付いた別のアプリをインストールするかもしれない。
わたし達は時々立ち止まって、アプリの整理をしたらいい。捨てたり、入れたり。すればいい。
「男性性」のアプリばっかりにしたっていい。…だけどもし、肉体の設定が「女型」なら、「妊娠・保育機能」を身体が保守し続けているだけで、相当なリソースを食っている。だからそれで「女性=デスクトップ」であることは変わらない。インストールしているアプリに関わらず、「女性」は「女性」なんである。
逆に、タブレットの方が、「男性」にするか「女’」にするか、それを搭載するアプリが決定することになるんだろう。
しかし、どういうアプリを積んだとして、「タブレット」が「タブレット」であることは変えられない。妊娠機能のない身体に妊娠機能はつけられない。逆に言うならば、積んでいるアプリの並びが、その人の個性であり、人間性で、「性別」とは、ただ形容したものである…とも言える。そんくらいのプライオリティに、「性別」というカテゴリはこれからの未来は、下がっていくんじゃないだろうか…。
今わたしは頭の中でクイアの人を想定しているが、彼・彼女らは、このバーチャルな世界にあって、すごい先駆的なお手本だと思う。
デスクトップもタブレットもどっちもPCだよ。
「ヒューマン」。
どんなアプリを、どんな風に積んでも、みんな「人間」だよ。
ということで。
わたくしパクチーとしては、このお題、結構いいところまで見通せたんじゃないかと思います。満足じゃ。余は満足じゃーーー!!
本当は書こうと思っていたあるアーティストの方々がありまして、もしかしたらおまけで書くかもしれないなあ。
つづくか?
それでは、また!
…続きました…!
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